山口城趾

堀内、打越、町谷に跨る。大字山口の中央より稍々西方にて、柳瀬川の岸にあり。現在城跡と認め得るは南北百二十間、東西百五十間、大手口は西方なりしと。東方塁の中に児(ちご)ヶ池(いけ)あり。池の辺高さ七八尺乃至一丈許の土塁を存す。更に城は柳瀬川の南にも出て、北方の山腹にも及びしが如く、共に低き土塁の跡を存せり。思ふに山口氏此辺に住し、時代の進ひに従て斯の如き城塁を構ふるに至りしならん。其落城は貞治六年高清の時とし、或は永徳三年高実の時とし、成は山口主膳正の時氏康に攻められたる時とし、或は天正十八年小田原攻囲の時とす。何れなるやを知らずと雖、系図は主膳の時の事とせり。或は然らん。児ケ池は二三坪の小池のみ。然も落城の時山口氏夫人児を抱て死せりと云ひ、或は一人の児童馬を馳せて池中に死せりと伝ふ。一種の説話也。