矢荻及小ヶ谷戸の西にして、人家百余、村役場、小学校、隔離病舍等皆此地にあり。
堯恵法師の北国紀行に文明十九年六月廿八日、武蔵野の内、中野と云ふ処に平重俊といへるが催に囚て云々
露払ふ道は袖より村消の草葉に帰る武蔵野の原。
日高くさし昇りて云々
夏しれる空や富士の根草の上の白雪暑き武蔵野の原。
堀兼の井近き云々など載せたるは或は此の地にや。小字北中野は普通土屋新田と称せらる。土屋氏の開きし新田なるか。否か。土屋家譜によれば、土屋甚助利常。天正十七年駿府に於て東照宮に謁し、奉二百石の地を爰にて賜はりしこと見ゆ。天正十七年と云ふと少しく怪しむべきも、大体は然る可し。子孫相嗣ぎ、此地を知行す。其墳墓今尚、長久寺跡の畑間に存す。