元狭山村
総説
現状
元狭山村は郡内最南端の一村にして、北は東金子村、東は宮寺村。南は多摩郡、西は金子村の地に接壌せり。豊岡八王子街道、所沢青梅街道、新河岸狭山街道、村内を縦横せり。所沢町を去る西方三里弱、豊岡町を去る南方一里半也。
村の南境には丘陵あり。高根山聳えたり。其他は一帯高平の原地に属すと雖、西方は東方に比して稍しく高し。不老川は南境の丘陵より発し、東北に流れて宮寺村に入る。陸田多く、森林亦少からず。土地大に肥沃なりと称するを得ず、養蚕業盛也。荼、綿布、繭絲の産あり。人口二千六百四十二、戸数三百九十六。二本木、駒形富士山(こまがたふじやま)、高根、富士山栗原新田(ふじやまくりはらしんでん)の四大字に分れたり。
沿革
元狭山村の地方は古の宮寺郷にして、中古は一面の原野たりしもりゝ如し。正保の国図によれば、此辺に唯宮寺町を記すのみにして、他は見えず。元禄の図に至て、宮寺として二本木、富士山、駒形、高根の四村を記せり。栗原新田は元禄以後に開墾せられたり。駒形富士山は近年合して一村となりしと覚ゆる也。今も二本木に住する栗原氏は、元甲州の武田氏に仕へ、武田滅亡の後、鶴島村高倉及高萩村大谷沢等を開きしと称せらる。其の後此の地に来り頗る土地を開発せしものならん。家に天正九年及十八年の文書三通蔵せり。
正保乃至元禄の頃、村落の正式に成立したる後は采地若くは支配地にて、明治元年知県事に属し、二年品川県となり、韮山県となり、四年入間県(三大区三小区)六年熊谷県、九年埼玉県となり、十二年入間高麗郡役所々轄、十七年宮寺と合して、二本木連合を作り、二十二年宮寺は一村となり、二本木、高根、駒形富士山、富士山栗原新田の四村を合して元狭山村を組織せり。
二本木は村の北部を占めたる大部落にして、戸数二百余、上、中、下三宿あれど、下宿は宮寺村に属せり。二本木の名称は昔村内に二本の榎あり、依て二本榎と呼びたるも、転訛して二本木となれりと云ふ。思ふに八王子日光街道の繁栄は漸次此の村を勃興せしめしものならん。街道旧蹟考によれば二本木村宮寺郷の中なり、社木にてもなく槻の大木二株ありしを以て名く。其畠中又は狭山より石鏃を出すと記したり。
中宿の北方約三町許の丘上にあり。渡唐の天神と云ふ。元は寿昌寺の持なりしが、今は上、中組の鎮守となれり。
寿昌寺持にして、天神社境内にあり。
元長福寺持にして、下宿の南部、同寺の西隣にあり。今は中宿(下分)の鎮守也。始め東袋にありしが、何時しか此処に移せり。
不盡山と号す。臨済宗建長寺派にして、立川普済寺に属す。開山桃源宗悟。永徳二年寂す。明治三十年境内に百地蔵尊を設く、垂絲梅あり。古寺。の庭中老幹春を忘れざる也。
長福寺と同宗同末、開山蔵海性珍応永六年寂す。
前二寺と同宗同末、開山南紅元和九年寂す、維新後廃寺となれり。
宮寺に跨れり、明向山と号す。真言宗、明治四十二年宮寺村長久寺に合す。
風土記によれば屋敷跡あり。布目瓦を出せりと云ふ。今何れの処なるやを知らず。
高根は村の東部にあり。戸数六七十。村名は高根神社より出づるにや。
狭山の丘山にあり。高根の鎮守也。末社に日枝八坂両社あり。
松沢山と号す。二本木寿昌寺末、開山真菴永禄二年八月寂す。
駒形富士山は村の南部に位す。駒形は駒形神社あるによりて名けられ、富士山は富士山あるによりて称せしものなるが如し。今は合して一部落たり。戸数六七十。
駒形の北端にあり、曽て神体は円石(石剣にや)なりしと云ふ。末社に白山、八坂神社の両社あり。
富士山の産土神也。
富士山栗原新田は村の西部にあり。富士山の新田と称すれど、栗原を附すること明かならず、或は二本木栗原氏の関係にや。戸数三十。