二本木は村の北部を占めたる大部落にして、戸数二百余、上、中、下三宿あれど、下宿は宮寺村に属せり。二本木の名称は昔村内に二本の榎あり、依て二本榎と呼びたるも、転訛して二本木となれりと云ふ。思ふに八王子日光街道の繁栄は漸次此の村を勃興せしめしものならん。街道旧蹟考によれば二本木村宮寺郷の中なり、社木にてもなく槻の大木二株ありしを以て名く。其畠中又は狭山より石鏃を出すと記したり。
中宿の北方約三町許の丘上にあり。渡唐の天神と云ふ。元は寿昌寺の持なりしが、今は上、中組の鎮守となれり。
寿昌寺持にして、天神社境内にあり。
元長福寺持にして、下宿の南部、同寺の西隣にあり。今は中宿(下分)の鎮守也。始め東袋にありしが、何時しか此処に移せり。
不盡山と号す。臨済宗建長寺派にして、立川普済寺に属す。開山桃源宗悟。永徳二年寂す。明治三十年境内に百地蔵尊を設く、垂絲梅あり。古寺。の庭中老幹春を忘れざる也。
長福寺と同宗同末、開山蔵海性珍応永六年寂す。
前二寺と同宗同末、開山南紅元和九年寂す、維新後廃寺となれり。
風土記によれば屋敷跡あり。布目瓦を出せりと云ふ。今何れの処なるやを知らず。