根岸
根岸は村の東部に位す。戸数五十。
稲荷神社
村社也、北方の高台上に設く。
金子村は郡の南端に位する一村にして、北は加治、元加治の二村、東は東金子村、南は元狭山村、西は多摩郡霞村に接壌せり。豊岡青梅街道の通路に当り、南には其旧道もあり。川越町を去る五里、豊岡町を去る一里半也。北は阿須山一帯の兵陵にして、南は高平の陸田地也。中央に桂川あり(下流霞川)。地味肥沃なりと云ふべからず。製茶養蚕の業甚だ盛也。根岸、中神、花ノ木、上下谷ヶ貫、西三ッ木、寺竹、南峯、木蓮寺等の九大字より成る。戸数六百六十三、人口三千九百。
金子村の地方は東金子と共に古の金子郷にして、寛喜二年六月降雪の事東鑑に出でたり。金子家忠の事は更に云はず。木蓮寺は其菩提寺と称せらる。又瀧山古街道と称するあり。瀧山城より鉢形城への往来にて、南峯の東南より寺竹を経て加治村阿須に出でしと云ふ。西三ッ木は堀兼村東三ッ木と相関係せしものゝ如く、東三ッ木の開拓者三ッ木氏は始め此地に住し、転じて東せしなりと伝へらる。役帳に花ノ木其寄子給三百八十一貫六百文金子郷とあるは、花ノ木の住人に花ノ木氏ありしなるべく、高麗村新堀金山権現の神体に葛□郷花木宮天正七年己卯九月吉日妙泉坊とありしと称するは、恐らく此地ならんと云ふ。中神に三輪神社あり。根岸は近年まで根岸小谷田と称せし処也。木蓮寺に始まり中神、根岸、或は東金子一円、豊岡町西郊に及ぶまで、金子郷にして、桂庄に属し、或は八瀬の里とも称したりきと云ふ。廻国雑記に、
里人のやせと云ふ名りほりかねの井に水なきを佗てすむらん
とあるは此にや。
江戸時代の頃、采地あり、支配地あり、田安領あり。川越領あり、甚だ錯綜せしが、幕末の頃は采地、支配地、及前橋領となれり。依て明治元年知県事所属及前橋領あり。二年品川県及前橋藩あり、品川県は韮山県となり。四年前橋藩は前橋県となり、次で全村入間県(三大区四小区)に入る。其後東金子に同じ。但十七年花木、上下谷ヶ貫、三木、峯、木蓮寺、寺竹は、寺竹連合を成し、中神根岸は黒須連合に加はる。二十二年金子村を組織せり。
根岸は村の東部に位す。戸数五十。
村社也、北方の高台上に設く。
中神は根岸の西に連れり。戸数六十。村名或は三輪神社に関係あるにや。
坂上と云ふ処にあり。桂川の南に位す。村社也。往古は琵琶明神と唱へしも万治年中三輪明神と改めたりと云ふ。元は新久根岸中神の鎮守にして、藤原秀卿に関する一説話を伝へたり。
東沢と称する処にあり。木蓮寺瑞泉院末、開山本室文禄元年六月寂、開基豊泉左近将監にして天正三年九月卒す。左近の祖は小田原に仕へ、後浪人となりしが、左近此地を開き、此寺を立てたり。法名豊泉院名山大誉居士と云ふ。寺は山に挟まれ、渓間の要地に居り、寺域頗る広く、財宝甚だ富裕なりしも、漸く衰へ、且火災の難あり。今は一本堂及一庫裡を存するのみ。豊泉氏今尚存す。
花木は中神の西にあり。戸数三十。
大門東にあり。
街道旧蹟考に曰く、花木村の後の山より禹余糧を出す。土人は団子岩と云ふ。禹余糧なることを知らず。此辺の山は赤土山にて岩石等はなし。其色白く赤く、中に飴の如きものあり。故に団子岩と名けしならん。皆丸くして大小あり。拾ひ盡せしにや此頃は出てずと云ふ。と。禹余糧は子持石とも称し、薬に用ゐられし也。
上谷ヶ貫と下谷ヶ貫とは相並て村の中央に居り、其東は花木にして其西は西三ッ木也。戸数合せて百五十。
上谷ヶ貫蓬合にあり。山腹に位す。村社也。境内に三峯、八坂、天神の諸社あり。
上谷ヶ貫の誉田にあり。八幡山薬師寺と号す。開山賢覚、元和五年に創立し同年寂す。今は無住也。
下谷ヶ貫根道にあり。愛宕山地蔵院と号す。開山賢性正徳二年寂す。寺は曽て小学校に用ひられ、今は無住たり。
下谷ヶ貫西部にありしと云ひ、地頭大久保氏の先祖の住せしものなりと称すれど、村人今此地を知らず。
西三ッ木は上谷ヶ貫の西に連れり。戸数三十戸。三ッ木姓は即ち此地の旧族也。 別に三木(みき)と称するもの多し。三木氏元市村と称せしが、明治の始改めたるなりと云ふ。
入戸にあり。丘上に位す。元八坂神社と称せしが、明治九年金子神社と改む。
元馬頭観音堂と称す。三ッ木氏の所有也。三ッ木氏即金子家忠の後と称し、観音は、高野より遷せるものと称す。堂は村の南部にあり。
南方にあり。今はなし。
寺竹は西三ッ木の西及北に位す。
裏山にあり。西三木との境に位す。故に古は境の明神と称せしとかや。由来記によれば、桓武天皇八代後胤、金子武蔵守平行長勅命により武総両州武士の頭粱となり、関東に下向し、武州金子村に城て住す。後百余年にして十郎家忠武運長久の為に境明神を鬼門に造り、四百五年にして元亀三年に至り再建す。と。
然れども白髭は依然として高麗人関係の神社と解するを可とす。金子村の辺必ずしも高麗人の来位せざりしにあらざるが如し。社は丘上に位し、上下二宮あり、丘下に旧別当龍蔵院あり。今は金子氏と云ふ。
裏山にあり。寺岳山と号し、中古龍岳山と改めたりと云ふ。伝へ言ふ。寺竹は山腹の地に位するを以て、水の欠乏を患ふ。之を以て山号を龍岳と改めしに、泉湧出し爾来涸渇することなしと。蓋し土地開拓の面影を忍ぶべき一説話也。寺は瑞泉院に属す。開山天室徳源、永禄元年寂す。開基金子筑後守家定天正十五年卒す。法名高養院殿月峯常円居士。
南峯は寺竹の西に位す。戸数一百弱。
西加根にあり。
柱ノ里にあり。新義真言宗、開山秀尊、貞元二年二月寂す。元禄年間二十五世智真に至り、多摩都鹽船寺の法流を酌めり。
木蓮寺は南峯の西に連り、村の最西端也。村名は瑞泉院より起れるが如し。戸数一百。
笹山にあり、村社也。
曹洞宗也。初臨済なりしと云ふ。甲州永昌院末、金子家忠の開基と称せられ、家忠建保四年二月卒す。法溢瑞泉院雄翁道英と云ふ。家忠の妻畠山氏家忠に先ち建仁元年三月没す。法溢木蓮院標室奇榜と云ふ。寺内に金子氏の墓石あり。五輪塔六基。文字何れも不明、唯其稍新しきものに無外妙相大姉□月十三日と見ゆるのみ。寺は数回火災にかゝり、今は仮本堂及仮鐘楼あるのみ。山間の幽谷にして、地勢来迫し、寺域として雄大なるの威あり。成は此後家忠等の住せしにや。唯併しながら、街道旧蹟考に家忠近範の旧蹟は村民にきけど知らず。瑞泉寺に霊碑あり。香華院と云へど石塔も墳墓もなしとあるは注意すべし。
瑞泉院の南一町許、高台の上にして、今樺氏の住する処也。村民此地を以て家忠の舘跡なりと云ふものあり。
瑞泉院の西に位す。塩船寺末也。今は廃寺たれども、其地頗る寺地たりしの観を残せり。