白髭神社
裏山にあり。西三木との境に位す。故に古は境の明神と称せしとかや。由来記によれば、桓武天皇八代後胤、金子武蔵守平行長勅命により武総両州武士の頭粱となり、関東に下向し、武州金子村に城て住す。後百余年にして十郎家忠武運長久の為に境明神を鬼門に造り、四百五年にして元亀三年に至り再建す。と。
然れども白髭は依然として高麗人関係の神社と解するを可とす。金子村の辺必ずしも高麗人の来位せざりしにあらざるが如し。社は丘上に位し、上下二宮あり、丘下に旧別当龍蔵院あり。今は金子氏と云ふ。
寺竹は西三ッ木の西及北に位す。
裏山にあり。西三木との境に位す。故に古は境の明神と称せしとかや。由来記によれば、桓武天皇八代後胤、金子武蔵守平行長勅命により武総両州武士の頭粱となり、関東に下向し、武州金子村に城て住す。後百余年にして十郎家忠武運長久の為に境明神を鬼門に造り、四百五年にして元亀三年に至り再建す。と。
然れども白髭は依然として高麗人関係の神社と解するを可とす。金子村の辺必ずしも高麗人の来位せざりしにあらざるが如し。社は丘上に位し、上下二宮あり、丘下に旧別当龍蔵院あり。今は金子氏と云ふ。
裏山にあり。寺岳山と号し、中古龍岳山と改めたりと云ふ。伝へ言ふ。寺竹は山腹の地に位するを以て、水の欠乏を患ふ。之を以て山号を龍岳と改めしに、泉湧出し爾来涸渇することなしと。蓋し土地開拓の面影を忍ぶべき一説話也。寺は瑞泉院に属す。開山天室徳源、永禄元年寂す。開基金子筑後守家定天正十五年卒す。法名高養院殿月峯常円居士。