東金子

総説

現状

東金子村は郡の中央より南部に当り、北は水富村、東は豊岡町、東南は藤沢村宮寺村、西南は元狭山村、西は金子村、西北は元加治村の地に接続せり。豊岡青梅街道、村内に通じ、廃頽の状を呈して、南方に存す。又豊岡八王子街道も村の南隅を走れり。入間川町を去る一里半、所沢町を去ると二里半也。

入間川は北境の一部を流れ、霞川(上流は桂川と云ふ)は青梅街道に沿ふて流れたり。小池あり。阿須山の余脈、村の西及北に連り、愛宕山、乗鞍山、源氏峯等 名あり。故を以て土地高燥、峻坂多し。然れども南部は一円高平の地なりとす。 入間河畔、霞河畔に些少の水田を見るのみにして、村内大低陸田と雑木林とのみ。

土地甚だ肥沃なりと云ふべからず。産業は茶業、蚕業、機織等盛大にして、農 産は麦を主とし、甘藷、豆類も出づ。新久小谷田の二大字に分れ、人口二千 三百六十五、戸数三百七十。

沿革

東金子は即西に接する金子と共に古の金子郷の地にして、東鑑寛喜二年六月十日の条に、武蔵国在庁等注申云、去る九日辰刻当国金子郷雪交雨降云々と見えたり、又七党村山党の一派金子氏の拠地なりしと覚しく、六郎家範、十郎家忠等既に著名也。然れども金子氏の住跡は或は元加治村仏子にありとなし、或は金子村木蓮なりとなし、何れも些少の理由を有するが如しと雖未だ十分に明ならず、但村内家忠に縁故ありと称する旧蹟甚だ多し。其後降て天正十八年五味金右衛門豊直父の後を受け、八歳にして小田谷の地を賜はり、後寛永中其嗣絶ゆるに及で支配地となりしが、又一部を釆地とし、或は田安家領となせしが、幕末の頃は釆地、支配地及堀田相模守領たり。新久も大低之に準じ、釆地として維新の際に及べり。采地支配地は明治元年武蔵知県事に属し、二年品川県、次で韭山県となり、堀田領は二年佐倉藩、四年佐倉県となり、次で全村入間県(三大区四小区)となる。六年熊谷県、九年埼玉県、十二年入間高麗郡役所々轄、十七年黒須高倉根岸中神と六村連合を作り、二十二年二村を合して東金子村を組織せり。

小谷田

村の東部を占め、頗る大也。戸数二百五十。小谷田元二村あり。一を小谷田と 云ひ、一を根岸小谷田と云へり。別に新久の地方を称して入小谷田と名けたるやの形蹟あり。小谷田は古甚大村なりし也。然るを何れの頃とも知らず。略三 個の小谷田に分れ、入小谷田は新久と改められ、根岸小谷田も根岸と呼ばるゝに至りしならん。然れども小谷田本村即今の小谷田も未だ決して小ならず。

永川神社

村社也。文治四年八月一宮永川神社の分霊を勧請せるものなりと云ひ。勧請証書を蔵すと云へど如何にや。明治四十年沢権現社、森原稲荷社等を合す。

中野原稲荷神社

無格社にして、元薬王寺に属せし小祠なりしが、二三十年来甚だ流行して、今は殊ど全盛也。明治二十七年今の社殿を立つ。境内広闊、老杉神前に相並び、老桜も交はる。華表甚だ多し。

東光寺

新義真言宗豊山派に属し、西多摩郡大久野村西福寺末也。法栄山遍照院と号す。創立不詳中興開山印融、永正十六年八月寂す。寛保元年諸堂焼失せしが、十四世霊妙之を再建せり。大日堂もあり。鐘楼もあり延宝年代の鐘をかく寺地は小学校及村役場の西に接し、墓地を丘上に設く、板碑甚だ多し。

五味氏墓所

東光寺墓地に五味氏累代の墓石あり。然れども古色蒼然たるものにあらず。或は古は五輪塔などを存せしにや。武蔵演路によれば

五味主殿介政義墓、山内対馬守盛豊孫也。小谷田にあり。所民五味殿墓と称 す。五味頼母藤原政時の先祖也。古昔小田原陣供奉にて、手疵を受け、天正十八年十二月十六日知行処小谷田村に赴くとて、多摩郡関戸にて卒す、智光院と号す。頃年二百回忌にて尋ね、漸く此地に墓を発見す。

とあり。志料にも出て、墓を探索せる苦心の経過を語れり。政義は即ち豊直の父也。

五味氏屋敷跡

田谷と称する処にあり。三反許の処なりと云ふ。其地を物色するに或は東光寺の付近、今の小学校の辺ならずやと思はる。

薬王寺跡

養林山と号し東光寺に属す。曽て中野原稲荷を所持せし寺也。今は廃寺となれり。

不動堂

東光寺の西南にあり。堂は高台に設け、台下に元の修験明王院あり。院は笹井観音堂の配下にして、威徳山と号す。不動堂の旧別当也。堂に不動の木像を安置す。丈三尺五寸、古色蒼然偉大なる仏像也。伝へ言ふ。金子家忠の守本尊にして、家忠鞍骨山に城を設け、館を仏子に設く、強敵と戦ふに臨で祈願の功により難を免れたりと。奉○追武州入東郡小谷田江不動之鰐口元和四年施主と刻したる鰐口あり。

金子家忠に関する古跡

金子坂は西北方に位し、仏子に出づる坂路也。家忠が常に往返したる処と称せられ、十郎清水は北方牛沢にあり、家忠戦利あらずして、渇し、水を此処に求めたるなりと伝ふ。又村人は其屋敷跡もありと主張せり。

福泉塚及五輪塔

五輪塔は源氏峯山林中にあり。四五基その一は桑田氏の祖膂力秀でたる人ありて、多くの逸話を残せり。塔は其人の墓なりと称せらる。迷信により耳漏患者の参詣多し。付近に京塚と称する塚一二あり。福仙塚は南方、元狭山へ近し。福仙と称する上人此地を選び、堂宇を建てたりと伝説す。

寺跡?瓦製造所?

小谷田辺一帯布目瓦の破片頗る散在せり。或は古の瓦製造所ありしか。此辺今も瓦の製造を行ふものあり。然るに又中野原稲荷東北方に接して坂東山若くは盤堂山と称する処畑中より頗る板碑を出せり。東光寺にあるもの殆ど然りと云ふ。依て或は此辺大寺堂のありて布目瓦を用ゐしにあらずやとも称す。北方の咎池(やついけ)の辺には鉄糞を出す。矢の根石も元は頗る出でたりと云ふ。

新久

新久は村の西南部にして、戸数百五十。

八坂神社

鎮守也。由緒不明。

龍円寺

新義真言宗智山派に属し、高麗村聖天院末、龍岳山観喜院と号す。境内に子の観音堂あり。開創不詳、中興開山俊誉、寛永六年寂す。堂宇荘厳なりしが、明治三十四年三月類燃に罹り、五月今の仮本堂を設け、子観音も其一部に安置せり。

市川屋敷跡

田谷(新久の田谷と小谷田の田谷とは位置接近せず)にあり。四反許の処にして、地頭市川太左衛門の住せし処と云ふ。其頃の鎮守たりし田谷稲荷の祠今も存す。又古井もありて龍円寺の観音は此井中より出てたりと伝ふる也。