永川神社
村社也。文治四年八月一宮永川神社の分霊を勧請せるものなりと云ひ。勧請証書を蔵すと云へど如何にや。明治四十年沢権現社、森原稲荷社等を合す。
村の東部を占め、頗る大也。戸数二百五十。小谷田元二村あり。一を小谷田と 云ひ、一を根岸小谷田と云へり。別に新久の地方を称して入小谷田と名けたるやの形蹟あり。小谷田は古甚大村なりし也。然るを何れの頃とも知らず。略三 個の小谷田に分れ、入小谷田は新久と改められ、根岸小谷田も根岸と呼ばるゝに至りしならん。然れども小谷田本村即今の小谷田も未だ決して小ならず。
村社也。文治四年八月一宮永川神社の分霊を勧請せるものなりと云ひ。勧請証書を蔵すと云へど如何にや。明治四十年沢権現社、森原稲荷社等を合す。
無格社にして、元薬王寺に属せし小祠なりしが、二三十年来甚だ流行して、今は殊ど全盛也。明治二十七年今の社殿を立つ。境内広闊、老杉神前に相並び、老桜も交はる。華表甚だ多し。
新義真言宗豊山派に属し、西多摩郡大久野村西福寺末也。法栄山遍照院と号す。創立不詳中興開山印融、永正十六年八月寂す。寛保元年諸堂焼失せしが、十四世霊妙之を再建せり。大日堂もあり。鐘楼もあり延宝年代の鐘をかく寺地は小学校及村役場の西に接し、墓地を丘上に設く、板碑甚だ多し。
東光寺墓地に五味氏累代の墓石あり。然れども古色蒼然たるものにあらず。或は古は五輪塔などを存せしにや。武蔵演路によれば
五味主殿介政義墓、山内対馬守盛豊孫也。小谷田にあり。所民五味殿墓と称 す。五味頼母藤原政時の先祖也。古昔小田原陣供奉にて、手疵を受け、天正十八年十二月十六日知行処小谷田村に赴くとて、多摩郡関戸にて卒す、智光院と号す。頃年二百回忌にて尋ね、漸く此地に墓を発見す。
とあり。志料にも出て、墓を探索せる苦心の経過を語れり。政義は即ち豊直の父也。
田谷と称する処にあり。三反許の処なりと云ふ。其地を物色するに或は東光寺の付近、今の小学校の辺ならずやと思はる。
東光寺の西南にあり。堂は高台に設け、台下に元の修験明王院あり。院は笹井観音堂の配下にして、威徳山と号す。不動堂の旧別当也。堂に不動の木像を安置す。丈三尺五寸、古色蒼然偉大なる仏像也。伝へ言ふ。金子家忠の守本尊にして、家忠鞍骨山に城を設け、館を仏子に設く、強敵と戦ふに臨で祈願の功により難を免れたりと。奉○追武州入東郡小谷田江不動之鰐口元和四年施主と刻したる鰐口あり。
金子坂は西北方に位し、仏子に出づる坂路也。家忠が常に往返したる処と称せられ、十郎清水は北方牛沢にあり、家忠戦利あらずして、渇し、水を此処に求めたるなりと伝ふ。又村人は其屋敷跡もありと主張せり。
五輪塔は源氏峯山林中にあり。四五基その一は桑田氏の祖膂力秀でたる人ありて、多くの逸話を残せり。塔は其人の墓なりと称せらる。迷信により耳漏患者の参詣多し。付近に京塚と称する塚一二あり。福仙塚は南方、元狭山へ近し。福仙と称する上人此地を選び、堂宇を建てたりと伝説す。
小谷田辺一帯布目瓦の破片頗る散在せり。或は古の瓦製造所ありしか。此辺今も瓦の製造を行ふものあり。然るに又中野原稲荷東北方に接して坂東山若くは盤堂山と称する処畑中より頗る板碑を出せり。東光寺にあるもの殆ど然りと云ふ。依て或は此辺大寺堂のありて布目瓦を用ゐしにあらずやとも称す。北方の咎池(やついけ)の辺には鉄糞を出す。矢の根石も元は頗る出でたりと云ふ。