黒須

黒須は町の北部を占めたり。戸数二百。野話曰、黒須村に川あり篠井川の上に て分れ、又末同し川に落合ふ。其中の洲なれば黒須村ならんか。又永禄元亀の頃上田上野介の幕下に男衾郡玉川領木呂子(くろず)村所産の人にて木呂子丹波と云ひし人の知行にてもありしやと。黒須地勢の変遷説傾聴すべし。

春日神社

久保田にあり。大和春日神社を分祀せるものなりと云ふ。宝暦二年再建の棟札あり。元西山にありしが、維新の頃今の地に移す。村社也。八坂、稲荷、愛宕、向山等の末社あり。

蓮華院

後(うしろ)にあり。世音山妙知寺と称す。高麗村聖天院末也。開山寂蓮年代不詳中興覚常、万治元年寂す。此時堂閣一宇を造る。貞享四年村内より鐘を寄進す。明治三十三年火災に罹り本堂庫裡を焼失す。三十五年再営す。本堂の北に観音堂あり。堂宇見るべし。然れども永禄以前は更に壮大なりしと云ふ。奉施武州比企郡千手堂鰐口大工越松本、寛正二年辛巳十月十七日願主釜形四郎五郎と刻せる鰐口を蔵せり。如何にして此処に来りしにや。境内広闊也。

観蔵寺

聖天院末、中興覚寺延宝三年寂す。

大行寺

蓮華院末、廃寺となる。

真観寺跡

蓮華院末にして村の東にあり。今は其跡も知り難し。

根本山薬師堂

信徒多く、冬至の盛呪云はん方なし。創立不詳、延宝年間里人覚寿堂宇を再営す。復廃る。嘉永二年地頭稲富氏より認可を得て、根本山三光院と云ひ、中興す、明治二十一年修験を止めて、天台に復す。元は今の警察の処にあり。明治八年移る。

上小屋及下小屋

根本山の後方に位し、高台也。雨地殆ど相接せり。昔陣屋ありし跡ならんと云ふ。

大将軍又は大将陣

風土記に、大将軍、南の方扇町屋堺にあり。古大将の陣取りし処なりと云ふのみにて其名を伝へず。按ずるに元弘三年新田義貞鎌倉攻の時、入間川に陣す。又文和二年源基氏入間川に下向の事もあれば是等の時の事にや。前の上下小屋と云ふも同時の名残なるべし。と。今豊岡町の人に就て問ふに或は大将軍は無けれども扇町屋に近き高台の陸田に大将陣ありと云ふ。思ふに大将陣は大将軍を転訛せしめたるものにや。若くは大将軍が誤にして遠き古より大将陣として伝はり来れりとすれば、之れ川越仙波に於ける「南畑陣」と同じく、必ずや意味ある地名ならずんばあらず。然るに若し大将軍なりしとすれば、此に以て義貞若くは基氏等武将の陣地と認むるは早計なるやの威あり。

蓋し大将軍は小祠として古来僻地にも存したりし実例あり。又大将軍社には敷地のみありて社なきもありと云ふ。其依て出てたる原由に至ては恐らく陰陽道に基くものなるべしと雖、要するに八王子、若王子等と同一類也。大将軍と称するが如きを以て忽ち将軍陣地と為すベからず。今後の吟味を要すべし。