扇町屋

扇町屋は町の東南部を占めたり。戸数二百。風土記には昔民家の連りし本宿と称する小名を掲げたり。今の宿の東北に当るが如し。高台也。武蔵演路に曰く扇町屋、米商人、富家多く繁昌の町なり。八王子千人衆日光御番往還の通なりと。

愛宕神社

中台神明窪の地にあり、社伝によれば、往古武蔵野の地が始めて開けんとするに当て、天照大神を祭り、中古正平十六年新田義興の霊を合祀し、嘉慶三年別雷神を合祀す。蓋し正平十三年足利基氏、新田義興の首を此地に検し、之を葬りしが、雷火あり、疫癘あり、里人恐れて義興を祭らんとす。基氏も畠山道誓に命じて義興甲胄馬上の像を造らしめ、之に軍扇を合せ、社を首塚の上に建て、之を祭る、天照大神も此時此に合祀せり。後弘和至徳の頃大火数次部落を襲ひ、嘉慶二年復大火あり、里人依て別雷神を勧請す。此時雷斧一、雷丸一を寄与す。天文年間祀官守屋伊豆、京師に参朝し、初号の勅許を得て新田大明神と号せしを、慶安二年の朱印には愛宕権現と記して、新田明神の称を禁じ、併て古文書を召上げらる。と。或は思ふ。此社の創立さまで古からず。初神明若くは愛宕の祠を設けて、而して後に新田義奥の信仰起り、一時私に新田大明神に擬したるものならん。義興の事は次項十三塚に述ぶ。明治五年村社となる。八雲、琴平、蚕影等の末社あり。蚕影は文政二年三月常陸筑波郡蚕影社より分祀せりと。

十三塚

愛宕神社の後を廻りて古十三個の塚ありと云ふ。文政の頃は纔に四を存し、今は三を存す。病院の傍、道に沿へる一塚最も眼に就き易し。風土記に曰く、愛宕社々伝に云ふ。

義興は江戸竹沢に欺かれて矢口渡に於て、討たれけるにより彼の主従の首十三級を基氏が許に持来りければ、当所にて実検を遂げ、其首を埋めし所十三塚とて今も残れり。

太平記義興自害の条に云ふ。

其後水練を入て兵衝佐竝に自害打死の首十三を求め出し、酒に浸して江戸遠江守、同下野守、竹沢右京亮五百余騎にて左馬頭殿の御座す武蔵の入間河の御陣へ馳せ参る。畠山入道斜ならず喜で小俟少輔次郎松田河村を呼出して此を見らるゝに仔細なき兵衛佐殿にて候ひけりとて云々。

と。(尚前後を参照すべし)社伝は太平記によりて之を増補布演したると明にして、而して太平記に載する所、前後を考定するに多少の疑問なき能はず。或は仮令水中を物色して正確なる十三の首数を得て、酒に浸して谷口より入間川まで十三四里の道程を運搬し、基氏の実検に供したりとするも、十三塚を造りしの一事は太平記の知らざる所也。殊に著いき疑問は十三塚なるものゝ全国各処に甚だ多き一事なりとす。風土記によりて調査するも。地名若くは実物の上に存するもの、武蔵国に於て、橘郡十二、久良岐郡一、都筑郡三、多摩郡三、荏原郡二、中に注意すべきは其一が矢口村矢口にありて、十三人塚と称せられ、十寄明神の後にあり。新田義興及其従者十二人の墓なりと称す。と記されたること也。続て北豊島郡二、南埼玉郡一、大里郡一、而して入間郡一也り尚北足立及比企に就て、調査せるに

北足立郡桶川町下日出谷十三塚の地名あり。 同郡中丸村下宮内に十三塚ありて、全部若くは一部を現存するものゝ如し。 比企郡南吉見村流川に十三塚ありて、山の中腹に十三個列をなして現存せり。

尚注意すべきは土地により十三塚と云はず。十三坊塚、十三本塚、十三法塚、銭神壇等の名を冠すること也。而して其由来に関する伝説は僧侶の墓若しくは仏説に帰すると、武人の首塚(必ずしも義興と限らず)若くは戦争説に帰するとの二趣あるが如く、所在地の往々にして神社若くは寺院付近にあるもの少からず。豊岡町十三塚に至ては偶々義典の故事と符合するものありと雖、更に少しく眼を大局に注ぎ、諸国に存する許多の十三塚そのものゝ根本的性質乃至由来を究明せんことを望むや切也。

日枝神社

本宿にあり。老杉繁茂し、一の森林を成す。社は永禄三年の創立なりと云ふ。明治四十年愛宕神社に合す。

久保稲荷神社

久保にあり。境内に老桜相連り、築山、神楽殿、絵馬堂等あり、明治初年には常設演劇場其他の観覧物ありて、大に賑へり。今も十余の民戸は殆ど社のために生活すと云ふ。社は天文年間守屋伊豆が京都稲荷山より分祀したる所と伝へられ、天明六年疫癘の流行せる後、頗る世に崇敬せられたり。

長泉寺

霞丘にあり。本堂は久しく学校に用ゐ、為に仏像は之を傍の観音堂に移し、堂舎甚が頽廃せり。