中台神明窪の地にあり、社伝によれば、往古武蔵野の地が始めて開けんとするに当て、天照大神を祭り、中古正平十六年新田義興の霊を合祀し、嘉慶三年別雷神を合祀す。蓋し正平十三年足利基氏、新田義興の首を此地に検し、之を葬りしが、雷火あり、疫癘あり、里人恐れて義興を祭らんとす。基氏も畠山道誓に命じて義興甲胄馬上の像を造らしめ、之に軍扇を合せ、社を首塚の上に建て、之を祭る、天照大神も此時此に合祀せり。後弘和至徳の頃大火数次部落を襲ひ、嘉慶二年復大火あり、里人依て別雷神を勧請す。此時雷斧一、雷丸一を寄与す。天文年間祀官守屋伊豆、京師に参朝し、初号の勅許を得て新田大明神と号せしを、慶安二年の朱印には愛宕権現と記して、新田明神の称を禁じ、併て古文書を召上げらる。と。或は思ふ。此社の創立さまで古からず。初神明若くは愛宕の祠を設けて、而して後に新田義奥の信仰起り、一時私に新田大明神に擬したるものならん。義興の事は次項十三塚に述ぶ。明治五年村社となる。八雲、琴平、蚕影等の末社あり。蚕影は文政二年三月常陸筑波郡蚕影社より分祀せりと。