現状
藤沢村は豊岡町の東南、入間村の西南に接壌し、南は三ヶ島村、西は宮寺、金子二村に境せり。郡内小村の一にして、不老川及之に並行する一細流(逃水川と云ふ)西南より東北に向て村内を貫けり。人家の存する処は細流の付近にして、土地稍々低し。所沢豊岡街道、入間元狭山街道は村内にて交叉し、人口二千百四十三、戸数三百二十五あり。上下藤沢の二大字に分る、土質は腐埴土を主とし、陸田、雑木林多きに居る。産物は茶、織物等あり。
藤沢村は豊岡町の東南、入間村の西南に接壌し、南は三ヶ島村、西は宮寺、金子二村に境せり。郡内小村の一にして、不老川及之に並行する一細流(逃水川と云ふ)西南より東北に向て村内を貫けり。人家の存する処は細流の付近にして、土地稍々低し。所沢豊岡街道、入間元狭山街道は村内にて交叉し、人口二千百四十三、戸数三百二十五あり。上下藤沢の二大字に分る、土質は腐埴土を主とし、陸田、雑木林多きに居る。産物は茶、織物等あり。
藤沢村は戦国の頃に開けしが、北条役帳に山口内藤沢四十貫文、山口平六知行せしことを載す。徳川時代のはじめ、上中下の称あれど正保、元禄の図は末だ上下の別を記さゞりしが如く、文化の改に及て明に上下二村を載せたれど、一方には又単に藤沢村とのみ記せり。依て思ふに上下若くは上中下の別の如きは是れ通俗上に用ゆる所にして、末だ公式の区分ならざりしものならん。然れども今日は正式に上下に分てり。
扨上中下に分れたりし藤沢村は、又采地支配地に分属して、士地互に錯綜せり。
上藤沢全部及下藤沢の過半は支配地にして、其残部は久貝氏の采地也。中藤沢全部は朝比奈氏の采地たり。明治六年上中両村を合して、上藤沢となし、二十二年上下両村を以て藤沢村を立てたり。上藤沢に石田姓多し。
明治四年入間郡(三大区五小区)、十七年扇町屋連合に入る。
村の西部の地方にして、百年前まて十万余坪の野なりき。古は入間川村に属せしを、宝暦年中藤沢の村となれり。建久四年源頼朝武蔵国入間野に於て追鳥狩を行ひ、藤沢二郎清親百発百中の妙技を試み、将軍の感賞を博せし処は大凡此地方なるベしと云ふ。但古代は此原遥かに南方に連り、今の宮寺、元狭山付近も曠野なりし也。