藤沢村は戦国の頃に開けしが、北条役帳に山口内藤沢四十貫文、山口平六知行せしことを載す。徳川時代のはじめ、上中下の称あれど正保、元禄の図は末だ上下の別を記さゞりしが如く、文化の改に及て明に上下二村を載せたれど、一方には又単に藤沢村とのみ記せり。依て思ふに上下若くは上中下の別の如きは是れ通俗上に用ゆる所にして、末だ公式の区分ならざりしものならん。然れども今日は正式に上下に分てり。
扨上中下に分れたりし藤沢村は、又采地支配地に分属して、士地互に錯綜せり。
上藤沢全部及下藤沢の過半は支配地にして、其残部は久貝氏の采地也。中藤沢全部は朝比奈氏の采地たり。明治六年上中両村を合して、上藤沢となし、二十二年上下両村を以て藤沢村を立てたり。上藤沢に石田姓多し。
明治四年入間郡(三大区五小区)、十七年扇町屋連合に入る。