風土記は入間川村の地方、元入間と称し、郡名の起原となりし処ならんと主張せり。曰く。「案ずるに村内子神社に掲げし応永二十三年の鰐口の銘に入間郷云々とあり、茲に入間郷と彫たるは全く村と云ふ心にて郷名にはあらざるべし。されど今も当村及奥富を入間郷と唱ふるは若くは古の郷名の唱へ残りしならんか。又川の字を添えしは近き頃よりの事と見えて、正保年中の国図及其頃の郷帳には入間村とのみ記したり。。」と。武蔵名所考は曰く。「志料に云ふ、入間の里即ち入間郡を広く指して云ふ。入間郷は和歌にも見えねど、此類凡て多し。と。案ずるに今入間郡に入間川村あり。土人の説に昔は入間里と云ひ、中頃は入間と云ひ、云々。又斉藤敬天云ふ。入間川は近世むらきし川により名を得たる地なれば古の入間里とは別なり。河越より南に当り、入曽村とて南北二村に分たれたる大村あり。間と曽と草体相似て誤書し来れるにや。これ正しく古の入間里ならんと。余考ふるに俗間の文書に片仮名もて送りを施すもの多し。入間の下に「リ」か「ル」を添書せし転化より後に入曽とはなりけんと思はる云々」と。要するに今日の入間川町及奥富村及入間村の辺は古入間郷と称せられたるにや、然るに入間川の名も比較的古く存す。