武家と入間川

風土記に曰く、「古の鎌倉街道の跡は小名中宿と云ふ所の裏に当りて、子の神といふ所あり。此処より入間川を渡りて高麗郡広瀬柏原の間に通じて、女影村に続けり。これ正慶中鎌倉攻の時新田義貞上州より打出て、此道にかゝり、入間川にて左近大夫入道恵勝と対陣して終には打勝ち、府中へかゝつて鎌倉へ攻入りしと云ふ云々」と。先之木曽冠者清高、寿永の昔鎌倉を逃れしが、入間川に至て、追手堀藤次親家が郎従藤田光隆に殺されたるは東鑑にも見へたる所、今も清水八幡と称する小祠あり。

義貞は徳林寺に陣し、八幡神社に祈願したりと伝へらる、其後北条時行、新田義宗、義興の通過あり。義宗退軍の時に当ては入間河原も亦古戦場也。足利基氏管領となるや、しばらく入間川に留りて関東を鎮せしことあり。故に基氏を称して入間川殿と云ふ。降て持氏上杉の紛争に当ても、入間川は屡々陣地となる。又上杉対後北条の争にも対陣となりしが如く、後太不記に、氏康八千騎にて入間川に打出て、河越を助けんと陣を取る、云々上杉勢入間川に押寄せ、北条陣を引き、上杉河越へ引き、北条又入間川に出づ云々とあるは信用し得べきや否やを知らすと雖、其戦塵の巷たりしは争ふべからず。