武蔵演路に曰く、「入間言葉と云ふことを伝ふ、そうせよと云ふをさうすなと云ひ、左を右と云ふなども入間里の風俗とすと。謠曲にも「入間川」あり。入間言葉とは蓋し何事をも反対に言ひあらはすことにて、偶々謠曲にも作らるゝに至れる也。之を入間様(よう)と云ふ。
此の月になこをの関や入間様 宗因
夏の日を涼しと云ふや入間様 宗雅
名も知らぬ月は雲にや入間様 立圃
何れも反対に言ひあらはすことを入間様と用ゐたる也。然らば何故に反対の事を入間様と云ふか。是れ興味ある問題也。 喜田博土は(武蔵野及読史百話)其解釈を廻国雑記に求めたり。雑記に曰く、「是より入間川にまかりてよめる。
立よりてかけをうつさは入間川
我年波もさかさまにゆけ
此河に付て様々の説あり、水逆に流れ侍ると云ふ一義も侍り、又里人の家の門、裏にて侍るとなん。水の流るゝ方角案内なきことなれば、何方を上下と定め難し。家々の口の誠に表には侍らず。惣じて申し通はす言葉なども反対なる事共なり。異行なる風情にて侍り。」と。即ち地方の風の何となく趣を異にせるに加へて、入間川は武蔵国中の諸川と方向を異にして、入間川町付近にては殆ど正北に流れ、他の川が東し又は南するに似ざるものなり。此に於て入間様なるものは風流人士によりて凡て「反対」の雅語として用ゐられ、之を入間言葉とも称するに至りしならん。決して入間川町、入間郷の地方の古俗、言語を逆に用ゐしにあらず。若し誤て速断し、入間川の言語凡て逆に解すべしとなすものあらば是れ彼の謠曲入間川に出てたる大名の失敗を繰返すものならずんばあらず。