承和五年戊午正月十一日、山城国葛野郡梅津郷梅宮神社を分社せるものにして、応永年代には村内小名を西方瀧と称する処にありしを、後今の地に移せる也。嘉永六年十一月廿日火災に罹り焼失せしも、奉武州入東郡奥富郷応永三十三年、西方瀧梅宮鰐口五月三日と記せる鰐口を遺存せり。慶応元年十二月十日再建す。明治四年村社となり、四十二年八月現制に於て又村社に指定せらる。此社元安産を祈るに霊験あり。近郷の婦女懐妊する時必ず祈請し、社下の砂を持ち帰りて、孕婦の枕下に置く時は安産す。願満つる時は又捧持して元の処へ置くを常例とせり。昔は本地梅宮十一面観音を安置し、秘仏とせしが、今は神仏厳別の世、如何にせしか知らず、末社に稲荷社、八幡社あり、外に尚五六の小社もあり。境内樹木多く、社後に古木あり、富士岳神社の丘あり。此辺水田の間に古墳の全形若しくは其一半を存するもの多し。