菅原天神社
村の中央にあり。勧請年代不明也。伝説によれば、古は尊体の首に錦の巻物を懸けたれど、今より百年前、之を竊取せりと云ふ。巻物の中、事蹟を記せしや。境内小丘の上に愛宕社あり。其傍に稲荷社あり。又内田真水翁寿碣碑あり。老槻古樅三五本、神威の霊なるを覚ゆ。近年又植ふるに梅樹を以てせり。
藤倉は山城の西に連り、戸数四五十、大塚村の人藤倉大膳と云ふもの此地を開発し、此名を負せたりと云ふ。慶安の頃迄は藤倉新田と称せしが、其後藤倉村と云ふに至れり。天正十八年支配地、寛永十六年川越領、宝永元年采地、寛延?三年支配地となり、後再び采地となり、天明以後復川越領となる。
村の中央にあり。勧請年代不明也。伝説によれば、古は尊体の首に錦の巻物を懸けたれど、今より百年前、之を竊取せりと云ふ。巻物の中、事蹟を記せしや。境内小丘の上に愛宕社あり。其傍に稲荷社あり。又内田真水翁寿碣碑あり。老槻古樅三五本、神威の霊なるを覚ゆ。近年又植ふるに梅樹を以てせり。