白山社
東部にあり。指定村社なり。明暦三年五月の勧請にして、本社及拝殿あり。庭前の楓樹及大公孫樹、秋冬の際異彩を放つ。
増形は藤倉の西北に連り、天正の頃より既に増形村と称せり。天正十八年徳川氏に帰し、寛永十六年川越領、延享三年田安氏の領、天保三年采地となり、多くの人に知行せられしが弘化三年川越領となる。
東部にあり。指定村社なり。明暦三年五月の勧請にして、本社及拝殿あり。庭前の楓樹及大公孫樹、秋冬の際異彩を放つ。
曹洞宗大袋村東陽寺末、増輝山と号す。昔は草庵にて休庵と云ふもの世塵を避けて爰に幽居し、康永三年八月十三日寂し、大雲寅徼と云ふもの開山し、元和元年に寂す。本尊正観音、其胸中に行基作六寸許の正観音を秘胎すと云へど、見るもの失明すべしとの伝説あり。本堂、禅室、客舎、鐘堂等あれど、曽て火災にかゝり、旧観を保つ能はず。
其祖長島民部左衡門信興に関する伝説によれば享徳元年甲府に生れ壮なるに及で、武田家に事へ、天正年中武田家亡び流浪し、由緒ありて勢州長島に住み、長島伊勢守と改め、北条氏直に召され、事へて、朱印感状を賜りたり。 後氏直、川越城入の時、供奉し、住宅を増形村に構へ、此処に住せり。 天正十七年没す。(年六十二)と長島氏の現主を酉太郎と云ふ。 其母の秘蔵せる古文書は北条氏の御触書にして、風土記にも引用せり。