村の沿革

村の中央高低両地の境界線たる断崖の南に一流あり、其流に当て、往々溜池を存す。思ふに是れ曽て入間川の古道たりし也。伝へ言ふ昔入間川に洪水あり、崖下の地一帯流水の濆域となりしかば、其辺に住せる人々何れも高台の地に居を移し、其跡一たび陸田となりしが、其後河流遠く南方を流るゝに至れるを以て、民居漸く旧に復し、之を下宿と称し、本村の地とす。而してその高台の地に残れるものを上宿と云ふ。鎌倉及南北朝の時代には鎌倉街道の要地に当り、水富村の境に当て所謂霞ヶ関の趾あり。今も村内に信濃道及奥州道と称する古道の跡あり。文治五年七月源頼朝の奥州征伐に当つて畠山重忠の従軍に柏原太郎なるものあり。降て小田原役帳には柏原四十五貫文師岡山城守及二十二貫四百八十四文柏原石上寄子石上弥太郎と見ゆ、天正十九年五月に行はれたる検地帳は市川宮内、小畠藤五郎、小味山又七等此地を知行したりしことを伝ふ。何れも北条氏の家臣にて天正年代此辺を支配せしと覚し。

徳川氏関東に入るに及び、天正十八年村の一部は川越領となり、一部は采地となりしが、元禄十二年に至て全村川越領となる。松平大和守前橋に移るに及にび前橋領となる。別に延享元年に開墾せられたる北方の新田地は支配地となれり。明治元年支配地は知県事に隸し、二年品川県となり、韮山県となり、前橋領は二年前橋藩となり、四年前橋県と改め、次で韮山県と共に全村入間県(四大区二小区)に属し、六年熊谷県となり、九年埼玉県に属し、十二年入間高麗郡役所を頂く。十七年笠幡村連合。二十二年一たび霞ヶ関村に入りしにや。後独立の自治体となる。