霞ヶ関趾
水富村との境界線に当り、低地より高台に登る坂上にあり。付近に大なる榎あり。村内に存する俗称黒米屋及白米屋の先祖は関に近く旅宿を開 業したりしものと言ひ伝へらる。
春立つや霞ヶ関を今朝越えてさても出てけん武蔵野の原。
いたづらに名をのみとめて東路の霞の関も春ぞ暮ゆく。
水富村との境界線に当り、低地より高台に登る坂上にあり。付近に大なる榎あり。村内に存する俗称黒米屋及白米屋の先祖は関に近く旅宿を開 業したりしものと言ひ伝へらる。
春立つや霞ヶ関を今朝越えてさても出てけん武蔵野の原。
いたづらに名をのみとめて東路の霞の関も春ぞ暮ゆく。
村の東方城の越にあり。東南は入間川流域の低地に臨み、西北は高台の陸田地に接続せり。入間川は中古崖下を流れしと覚しく、崖上高一丈有余の塁を廻らし、其中方二十間ばかりあり。別に西に続ける一廓あり。或は以前此両廓を包める外廓もありしや否や。砦跡の位置及構造頗る柳瀬村城の北条氏城蹟に似て、唯稍々小なるものあり。次に記する砦跡と並て明応年中上杉憲政が拠りし処にや。或は其後天文年間両上杉氏が拠りて、北条氏康の川越に赴くを支へんとしたる処などにや。此地今は林莽悽惨、蝉声鳴咽、愴然悲古の情あり。但崖上の風景稍々雄大、訪ふものをして、流石に好地形を占めたるに首肯せしひ。
前の砦蹟の東南、同じく高台の上、毛呂街道に沿ひて、一丘あり。丘上に近来鐘楼を設く、楼は丘下の永代寺所属のものを移せるなりと云ふ。丘の付近は今皆開拓して、畑となりし、御所の内の地名尚存して、口碑に明に砦跡なるを伝へたり。新撰和漢合図に明応五年五月足利政氏柏原に陣せしと見えたり。(同書明応四年政氏高倉(鶴島村)に陣す)蓋し政氏の此地に陣せしは相模地方より来て、川越を授けんとしたるものを遮断せんためなるべし。
御所内の付近及其北方二三の古塚を見る。何れも小也。或は既に其根跡を失へるもありと云ふ。
字御所の内畑中より出てたる板碑七八基一民家の裏に造られたり。元□元年七月十□日、広安元年九月一日行年丶丶丶丶、貞治二二年四月□日、永享丶丶丶(二基あり)、妙心禅尼(年号不明)等の文字見ゆ、又此地に近き、神官墓地中に立てる板碑は「永仁五丶丶と刻せる上へ、新に元禄七安亞道心法印刄正徳丶丶と記し、又永和□九月四日と刻せる上へ、新に□永及延享の年代に属する二 個の戒名を記す。再刻の形蹟歴たり。此板碑恐らくは御所内付近に出てしもの ならん。又字英(はなぶさ)に於て、一人家の側面、竹林中、猿を刻せる一板碑あり。土俗之を八幡様と称し、信仰措かずといふ。