前の砦蹟の東南、同じく高台の上、毛呂街道に沿ひて、一丘あり。丘上に近来鐘楼を設く、楼は丘下の永代寺所属のものを移せるなりと云ふ。丘の付近は今皆開拓して、畑となりし、御所の内の地名尚存して、口碑に明に砦跡なるを伝へたり。新撰和漢合図に明応五年五月足利政氏柏原に陣せしと見えたり。(同書明応四年政氏高倉(鶴島村)に陣す)蓋し政氏の此地に陣せしは相模地方より来て、川越を授けんとしたるものを遮断せんためなるべし。