広瀬神社
上広瀬の中央、県道の傍にあり。上下両村の鎮守にして、県社也。文政六年火災に遭ひ、宝物古記を焼失せりと雖、古老の口碑に日本武尊東征の際、此地の大和国広瀬の地と似たるを以て社殿を設け給へりと伝へ、式内社にして嘉祥三年官社に列せられしことは古史に明也。今の社殿は四十二年の落成にして、境内に旧社殿をも存す。老木数章、境内広濶、末社に八幡稲荷神明あり。又物産碑あり。埼玉県令白根多助翁の詠める歌を記せり
なゝこれり広瀬の浪はあやなりを堂川越の名に詠しけん
社は従来白髭明神と称せられき。
上広瀬及下広瀬は、村の東半部を占め、上広瀬は西に、下広瀬は東に相並べり。
上広瀬の中央、県道の傍にあり。上下両村の鎮守にして、県社也。文政六年火災に遭ひ、宝物古記を焼失せりと雖、古老の口碑に日本武尊東征の際、此地の大和国広瀬の地と似たるを以て社殿を設け給へりと伝へ、式内社にして嘉祥三年官社に列せられしことは古史に明也。今の社殿は四十二年の落成にして、境内に旧社殿をも存す。老木数章、境内広濶、末社に八幡稲荷神明あり。又物産碑あり。埼玉県令白根多助翁の詠める歌を記せり
なゝこれり広瀬の浪はあやなりを堂川越の名に詠しけん
社は従来白髭明神と称せられき。
曹洞宗永平寺末にして、万寿山と号す。万寿年間の設立にして、開基は玉岫?(りん・玉編に米と舛)公和向なりと云ふ。山号によりて年代を附会せし也。又、往古尼寺たり、鎌倉全盛の頃は千石を領し、松ヶ岡の尼寺は当山より移せしものなりと云ふ。然るに鐘銘によれば、明応年間玉岫?公尼和尚初開基於斯、乃天正元癸酉年萱尻而瑞泉五技華厳文説和尚為転法輪之道場也云々とあり。従ふべきに似たり。文説は中興開山也。境内南方に観音の堂あり。
惺桜山と号し、日蓮宗也。広瀬神社の東北一町ばかりに当り、開山日惺慶長三年寂す。開基は加治佐馬助家信同十七年卒す。番神堂あり、鐘楼あり。
上広瀬の東北にあり、柏原村と接せり。北は一面の高台にして、南は低地、其断崖高さ五六丈、往古越後、信濃地方より鎌倉に通ずる要所に当り、関守の跡あり。
果して霞関なるやを知らず。