観音堂

古来有名なる笹井観音堂は明治の初一たび廃滅に帰せしが、近時再び其跡に小堂を建てたり。旧観音堂別当瀧音山泊山寺梅の坊は本山派修験にして聖護院末、所謂日本二十八先達の一也。廻国雑記に、佐西の観音寺といへる山伏の坊に至りて、四五日遊覧し侍る間に、瓦礫ども詠し侍る中に

南帰北去一李闌 露宿風?(そん)綱不安 贏得行乗?(くちへんにかね)詩景 干峯万壑雪団々

と。又其東北に新田義貞の陣地と称するものあり。或は当時一派の部隊が宿営せしにや。寺は大同二年の創立と称し、北条氏照の文書其外大刀鎗宗旨関係の文書を存す。堂を廃して帰農し、明治二十二年、火災に罹りしも尚此を失はざりしは幸と云ふべし。