野田の支配者

里伝によれば、治承年間、新田大炊助義重入道浄西郷司職に補せられ、(元弘年間加治豊前守家茂より累代之を領し、天正年間北条氏照に属し、旗下加治左馬助(加治氏此時氏照に従ひしと見ゆ)をして之を支配せしむ、天正十八年徳川氏の直轄地となり。代官の支配、正徳元年川越領となり、秋元氏四代、松平氏三代にして、天保二年再び秋元但馬守知朝(館林藩)に帰し、若狭守久朝に伝えしが、弘化元年、復、松平大和守の領に帰し、三代相伝へて明治二年前橋藩と称し、四年前橋県と改め同十一月入間県に入り、十七年根岸外四村連合戸長役場に属す、二十二年元加治村となる。