円照寺

村の西南隅に当り入間川に近し、真言宗新義派高麗村聖天院末、土御門天皇の時、加治左衛門尉家秀及野田与一経久なるもの元久二年六月二十三日武州都築郡二俣川に於て畠山重忠と戦ひて討死す、依て其子の加治豊後守、田沼宗茂父の菩提のため円照上人(俗姓加治氏、父は刑部亟盛道)と一寺を建築し光明山正覚院円照寺と号し、加治氏累代の香華院たらしむ、円照宝治二年八月寂す、其後建長年間火災あり、康元元年加治左衛門尉、田沼泰家に咨り尊永上人(俗性不詳)と諸堂を建り、多治比氏の氏神、丹生明神を勧請し、寺門守護神となす、康元より元亀、天正に至る三百余年間寺門の盛衰ありと雖、加治氏の尊敬する所たりしは其累代の墳墓によりて知る。天正年間聖天院二十五世円真上人退老して此寺に住し朝弘法師に法を伝え嗣住たらしむ、依て法師を中興とす、当時三浦城之助某といふ者資を投じて之を賛助す、依て三浦氏を大旦那とす、境内には門徒金蔵寺並寺家七戸俗に門前百姓といふものあり、凡て当寺に隷属しき。今の本堂は元禄中の建立にして特に壮麗ならずと雖、又卑野ならず、加ふるに士地高くして、三方開闊なる、泉池の清浄にして、雅致ある、厳島祠の閑雅なる、金剛殿と記したる一堂の厳然たる、境内の風致実に絶好なりと云ふべき也。金剛殿の後方に元丹生明神あり、明治の始め之を白髭神社に合せりといふ、泉池の中に七不思議あり、後方の竹林中に加治氏代々の墓石あり。