新堀

新堀は村の東北部に位し、人家百余、伝へ云ふ、古紀州熊野より新堀氏此地に来て草創せし故、即村名となせるなりと。 今も村民に其氏を称するもの残れり。

有名なる高麗彦四郎等に関する十四通の文書は町田松五郎氏の家に蔵せり、如何なる故なるやを詳にせず。

高麗神社

字大宮にあり。 社掌を高麗典丸と云ふ。 祭神は猿田彦命及武内宿禰及高麗王若光なりと云ふ。 高麗氏並に里伝に存する所を総合するに来歴左の如し。

天武天皇の御世高麗若光国乱を避け、本邦に来帰す。 従五位に叙せられ、親族臣民尋て来る者多し。

文武の大宝三年王姓を賜ふ。

元正の霊亀二年当国に移住せしめ、高麗郡ををく、乃ち若光居を此地に卜し、属戚群臣多く群居す。 後漸く各所に散在して地を開けり。 若光猿田彦を崇敬し一社を創し、武内を配祀し、白髭明神と称し、群中の栄盛を祈る。 若光よく衆を撫し、之を安す、共後裔分派して各姓を改む、但正統依然高麗を称す。 若光の長子家重つきし時、貴賤若光の霊を祭り、高麗神社と尊称し、遂に白髭社に合祀す。 高麗人の各地に散在せるもの之を分祀して皆白髭明神と称す、中古二十一社の多きに及べりと云ふ。

当社往古は大宮山嶺にありしを中古今の地に遷す。

宝物

若光携帯の大刀、鏡、駒の角(乗馬に生ぜしとぞ)外数品。

大般若経

建暦建保年間慶弁顕学房下野足利雉足寺に寓し筆写して奉納す。 年所をへて数巻欠乏し。 明応中補之、鰐口文明十七年正月慶璽奉納再建天文二十一年(棟札あり)

と。 高麗氏の系統甚が明なるが如く、亦甚だ明ならぎるが如し。 其祖或は福徳に出づると云ふ、大宮白髭の祭祖の如きは決して猿田彦、武内等にあらざるべし。 境内に八坂神社あり。 又境外末社水天宮あり。 今の社殿は明治二十五年改築せるものにして、社は高麗村内八大字の鎮守也。

稲野辺神社

字原にあり。 創立不明、元新堀新田稲野辺原にありしを今の地に移せり。

熊野神社

字宮の前にあり。 宝暦九年十一月再建の棟札あり。

稲荷神社

字稲荷台にあり、伝に云ふ。 新田氏の族堀口某上野に走らんとし、此地を遇ぐる時、白狐草摺の間より現れしを見、武運盡きぬと嘆じて、此地に止まり一社を創せりと、何所の戦の役なるかを知らず。 元原宿村に属せしに新堀村と争論の末、訴を起し、遂に新堀村に属するに至れりと。 其年所不明也。

聖天院

字寺山にあり、新義真言宗京都知積院末、由緒に曰く、天平勝宝三年高麗王若光の侍、急勝楽冥福を祈らんがために伽藍を創し、半途にして寂す。 若光の第三子聖雲嗣ぎよく師の遺志を受け、不年落成し父の齎らせし聖天を安置す。 茲に高麗山勝楽寺聖天院と号す。 爾来六百余年、慶理円宗の梵筵を張りしが、貞和年間秀海上人、醐醍無量寿院僧正公紹にりき真言神秘法を禀承し、此時初めて真言の道場となる、寺は寛永年間火災にかゝれり。 寺堂大、山門壮麗、境内も広くして静寂也。 若光の墓(石五層にして高六尺五寸余)あり。 鍔日(応仁二年)半鐘(本堂の隅にあり文応二年三月鑄。 )不動書像(土佐昌光筆)、曼荼羅等あり。

多岸寺

字吹上にあり、新義真言宗、上野口医王寺末。 庭前の築山、自然の岩石にして頗る大なり。

法思寺

字新井にあり。 新義真言宗聖天院末也、慶長三年木村大膳之を建立すと云ふ。

陣場

風土記に曰く「聖天院の東、高麗川の西の方を云ふ。 鎌倉物語を案ずるに、永享十二年の頃上杉修理亮相州の守護として、高麗寺の下徳宣に陣を取ると見えたるは正しく此地なるべけれど、今其各所を失して詳ならず云々」と。 然れども此高麗寺は相州なるに似たり。