風土記に曰く「聖天院の東、高麗川の西の方を云ふ。 鎌倉物語を案ずるに、永享十二年の頃上杉修理亮相州の守護として、高麗寺の下徳宣に陣を取ると見えたるは正しく此地なるべけれど、今其各所を失して詳ならず云々」と。 然れども此高麗寺は相州なるに似たり。