旗塚
南部の丘上にあり、塚の周囲五六間乃至十間高さ三四尺より五六尺に至るもの三十六各喰違ひに二側に並ベり、土人之を経塚又は旗塚とも云ふ。 地形によりて案ずるに此地は高麗之原に於ける小丘陵にして、南北遥に原野を隔てて、入間高麗の二川を望み、東は一望村落に連り、田園川流の様も手に取るベく、円生社は廃し、円生池も今は涸れたりと雖、古は大にして、女影の于丈池は東南に在り。 太平記建武二年七月、相模守北条時行大将として三河入道照雲、滋野一族信濃より起り鎌倉を襲はんとし、鎌倉よりは渋川刑部、岩松武蔵などと女影原に出て戦ひ敗れて、二人自害せしを記する古取場は女影北部の原野なりしと云へば、此辺は恐らくは鎌倉勢の旗を起てたる所ならんと云ふものあり。 暫く記して後考を待つ。