駒形神社
宿の南に位し、日本武尊を祭ると云ふ。 古社にして曽て応永元年、文安元年、文明元年の棟札あり。 或は女影原合戦、若林野合戦等の折、再三兵火に罹りしものならん。 今は古の面影を存せさるものあり。 神職岡野氏にして即ち元の修験高萩院也。
高萩は村の中央より稍々北部に偏し、其東北に下高萩あり。 又其北端に下高萩新田あり。 高萩と下高萩とは元一村にして宝永の頃上下の別を設けしが、今は再び合して一となり、唯下高萩新田のみ独立して存在せり。 高萩の宿は小田原の頃に始まり、江戸時代八王子日光街道に当て頗る繁昌せり。
宿の南に位し、日本武尊を祭ると云ふ。 古社にして曽て応永元年、文安元年、文明元年の棟札あり。 或は女影原合戦、若林野合戦等の折、再三兵火に罹りしものならん。 今は古の面影を存せさるものあり。 神職岡野氏にして即ち元の修験高萩院也。
元の下高萩にあり。 川越高麗街道に沿ヘり。 村社なれども稍々廃頽の色あり。
其他尚小社多し。
宿の西、高麗街道の北に位す。 駒形山弥勒寺萩ノ坊と号し、本山派修験にして聖護院直末なりき。 永久年中の創草にして、長寛の頃より一寺となれりと云ふ。 古き修験にして勢力ありしを知るべし。 寺宝としては王義之十七帖、江戸時代に属する文書数点等を蔵す。 定市の法度其他の文書は今紛失せり遺憾と云ふべし。 明治の始修験を止め、本姓岡野氏を称し、神職たり。
高萩院の東に当り、谷雲寺に属す。 今は廃寺となり、堂と堂守とを残す。
宿の北部に堀内と称する処あり、小畔川を北にせる高台にして、人家二三戸あり。 此辺或は館跡なりしにや。 其南方三四町にして、高萩院後方の台地にも土居の跡あり。 其東部は蔵屋敷跡と称せられど、土居の全体は別に其居住者を有せざるべからず。 如何なる人の住せしにや。
高萩の南端稍々大なる古墳の上に日枝社を祭りし跡あり。 其南一町許にして方形の土居を残す。 岡野氏は此地を高倉福信の居館となせど、思ふに比較的近古の豪族若くは地頭などの住せし所ならん。
宿の北方に位す。 今は陸田地也。 王神と書すべきにや或は大陣の類にや。 文字を知らず。 岡野氏は此辺に太古人民の住跡ありしと称す。