諏訪神社
霞野にあり。 中央に位す、村社也。 字内諸社を合祀せり。
女影(おなかげ)は高萩の西に連り、其新田は南西北三方に存す。 南方に千丈ヶ池あり。 或は戦場ヶ池と書し或は仙女ヶ池と記す。 一女子池に投じて死し其影池中にあらはれしを以て村名とせりとは即ち地名伝説の一例也。
霞野にあり。 中央に位す、村社也。 字内諸社を合祀せり。
南方にあり。 三枝山と号し、龍穏寺十九世洪洲の開山にして、開基を三枝土佐守守重と云ふ。 慶安四年卒す。 寺は寛永十五年に成る。 寺の後方に屋敷跡あり。 即ち地頭三枝氏の居地也。
稍々中央部に位す。 今は廃堂の存するのみなれど、古三十三間堂ありしと云ふ。 其地鎌倉街道に近く、古瓦を出すとありと云ふ。
建武二年北条時行南下するに当て、足利直義、渋川刑部、岩松武蔵等を派して之を拒かしめしも軍利あらず、二将共に自仭せるは北方の原野にして、或は西方高麗川村中鹿山旗塚の如きも当時の陣地なりしならんと云ふ。