高倉

高倉は村の西部に当り、脚折三木の西方に接せり。 戸数七十。 或は曰く高倉は古高倉福信の生地なりと。 其証として挙ぐること甚だ不可なるもの多し。

曰く、旧松栄山高福寺は福信の菩提寺にて、其姓名の頭字を採りて高福と名けたりと。 然るに寺は江戸時代の始に創立せられたるものの如く、寺名説の如き索強附会たるを免れず。 曰く、寺に不動の仏書あり。 今之を不動堂に安置せり、福信の守本尊なりと。 然も其書正に古しと雖、さまで名書とも覚えず、殊に福信の頃果して斯く不動の仏書行はれしや否やを知らず。

曰く福信の古墳と覚しきものありと。 郡内至る処古墳のなきにあらず、然も頗る大なるものありて、而も到底其何人の噴墓たるやを知らざるを普通とす。

曰く高福寺墓地に貞治七年の板碑ありと。 郡内至る処、南北朝時代の板碑あり。 其高麗人移住の説は高麗村新堀に高麗の正統(?)の存するを無視し、日枝神社勧請説は福信の時代と延暦寺及日枝社全盛時代とを転倒し、高倉村の古大にして、屋敷と称する小名あり、又人家区画の整然たるを説くは徳川時代の諸村に往々珍らしからざる事実なるを如何せん。 脚折に白髭神社のあるも理曲とならず。 郡内には大凡二十有余の白髭あり、思ふに高倉村の成立は到底福信の頃にあらずして室町の頃にもやあらん。

日枝神社

中央より稍々東に偏せり。 村社也。 社前に杉の並木あり。 末社及境内社に稲荷、愛宕、神明、熊野、浅間等あり。

長泉寺

日枝社の前にあり。 元秋葉山と称し、大智寺末、開山良応元禄四年寂す。 今は廃寺となり、僅に空堂を存するのみ。

高福寺

松栄寺と号し、大智寺末、開山円乗元禄十二年寂す。 今は廃寺となり、僅に不動堂を残せるのみ。

砦跡

高倉の東部坂戸街道の西一二町にして、東西に土居の跡あり。 頗る廃頽したれども、一部明に弁ずべし。 明応四年十月古河の足利政氏、上杉顕定を授けて高倉に陣せしこと新撰和漢合図に見えたり。 思ふに此処は政氏の拠りし処ならん。 柏原村御所の内の条参照すベし。

川崎定孝屋敷跡

砦跡の東、街道を超えて一二町にして長方形に土居の跡明に存する処あり。 是れ川崎定孝屋敷跡にして、定孝は此辺の地頭、頗る荒蕪地開墾に力あり。