源昌寺跡

景台にあり。 三芳野名勝図絵樹木屋敷の条によれば慶長十三年川越城主酒井河内守上州廐橋へ移封の時、此にありし菩提寺龍海院を廐橋へ移し、其後御舎弟備後守城主の時、曹洞宗南陽山源昌寺を此に移し、御息讃岐守寛永十一年小浜に移封の時、寺は紺屋村へ引たり。 紺尾は元の如く讃岐守の領地たるによるなり。 云々とあれど、風土記紺屋村の条によれば、小浜国替の後此辺は酒井大学、同壱岐守、同兵郎等の采地たりしが如し。 又風士記及里伝には、「元領守酒井讃岐守忠勝の祖雅楽頭正親の法謚を源昌院殿と云ひ、正親の子河内守重忠父の菩提のため一寺を立つ忠勝に至り、寛永年中若州へ所替の中寺は近江国栗太郎浮気村へうつして今に彼地にありと、其寺記によれば当所旧跡に法剣権現正八幡白山等の社を残し、雅楽頭忠世が寄附せし鰐口をかくと云ふ。 されど今は其社も廃せられ其跡を止めず。 一説に源昌、隆昌、道光庵の三寺ありて今も其跡歴々として其他門前跡、寺やしか、墓地等残れり。 」とありて、酒井重忠の設立とし、又重忠川越城主にして直に偏卑なる紺屋に菩提寺を造替したる奇観を生ず。 要するに源昌寺は曽て存せり。 其跡も存す。 之に関する由緒は尚多少の研究を要すべし。