氷川神社
堀内にあり。 村社也。 末社に神明稲荷琴平の諸社あり。 正徳五年正一位を授かりたる文書あり。 近年左の諸社を合す。
小沼は村の北部にして、戸数百五十。 古墳少からず。 堀内と称する処あり。 村の草創小沼十八軒と称す。
堀内にあり。 村社也。 末社に神明稲荷琴平の諸社あり。 正徳五年正一位を授かりたる文書あり。 近年左の諸社を合す。
田島にあり。
熊野にあり。 大樹あり。 社地は古墳也。
越辺川辺にあり。 古は村の鎮守にして、村民も十八戸ばかり此辺に住せしが、洪水の為め今の地に移れり。
梶棒にあり。 社に関して奇怪なる伝説あり。
大道路にあり。 旧家(徳川以前の住とす)松本氏の氏神也。 社側に檜の大木あり、同回三丈余、天に冲す。 北足立郡中仙道より望ひべし。 嘉永年間江戸商人に売る。 当時にありて尚価数百金なりと云ふ。
木曽にあり、義仲の臣清水冠者に従て鎌倉を落ら、入間川にて、冠者討死の後、此処に来て住し義仲及冠者を祭れりと云ふ。
附島にあり。
新井にあり。 口碑によれば天文の頃の創立ならんと。
西北方後谷にあり。 薬王山浄小院と号す。 大智寺末、元暦、正和、文保、貞和、永徳、正長、文明等の板碑ありと云ふ。 寺の前方、古墳あり。 俚俗雷電山と云ふ処也。 瓢の如し、北方に高く、南に低し、高さ二丈ばかり、周囲百間、上に雷電社あり。 近傍に類似の小高き処数ヶ所ありと。 今は崩れて畑となる、全形を止めず。 先年鈴木某此墳の辺より埴輪と思しき立像二尺ばかりのものを、堀出したるとありと。
又一説に鎌倉時代、当郷付近鎌倉街道を狭て東光寺、西光寺とて二寺あり。 青木氏の寺にして、正治二年青木氏滅亡の後、護持仏薬師如来を西光寺に日光月光十二神を東光寺にうつすと。 庭前に浄水地あるによりて薬王山浄水院と号し、元弘三年新田義貞休息、薬師光を東西にはなつ、故に東光西光と云ふ。 古碑あり、法印弘栄建久五年八月寂とあり。 建久は青木氏亡滅の六年前なれば、亡滅前已に同氏の菩提寺なると疑なし。 故に承安年間の創立なりと口伝す。 義貞休息の説妄也。 青木氏亡滅の説拠あるにや。 弘治二年法印賢如住し之を中興とす。 後寛永年中隆円住し又中興となる。
寺脇にあり。 悳日山と号す。 大智寺末。 寺の後方西に当り、午塚とて高一丈、周囲十間許り。 四十四年堀りしも何物もなし。 此寺享和中焼失し什器古記を失ひ、唯楼門を存す。 梵鐘元禄五年の銘ありと。 考証とならず。 寺内に伏見稲荷あり、文化十年創立、観音堂あり、其後方に小川氏累代の墓碑あり。 小川氏は旧家にして、元甲斐の宿将馬場美濃守の後なりと。 碑あり、慶長の年号あり。 馬場氏何時よりか小川と改むと云ふ。
島崎にあり。 鳳雲山聖諦院と号す。 曹洞宗。 永源寺末。 観音堂あり。 堂中に白山稲荷社を合社す。 永禄二年道斉宗現沙弥の開創にして、沙弥元亀三年七月十五日寂、此人小島氏と云ひ、村の農民なりき、今は其家絶ゆ。 六代徳高中興並法流開山たり。
堀之内にあり。 氷川山宝楽院と号す。 大智寺末。 法音寺三世栄海、氷川社祈願の為、此に隠居し寺とす、故に檀徒なく、墓なし。 明治の初、廃寺となる。 今は建物のみを存す。