鯨井

鯨井は村の中央より東部に亘る大なる村落にして川越坂戸、川越越生両街道は村内に於て分れ、人馬の往来少からず、表方、後方、有泉、宿、天王及犬竹の六小字に分れ、戸数百四十、古、久次郎なるものの草創なるに由て久次郎居(くじらゐ)と称するに至れりと説くものあれど、真偽を保すべからず。 村の東方犬竹は古は一区の小村にて、延宝の頃までは、犬竹郷などと記したる証跡あり。 然るに洪水及交通の関係は因を為したると覚しくて、其後漸次犬竹の住民は鯨井の方へ移るに至り、遂に併せられて犬竹鯨井中の一字たるに至れり。 現今犬竹の人家十五六戸のみ。 鯨井に存せる寺院人家などにして、犬竹より移り来れることの確実なる伝説を有するもの頗る多し。

犬竹

春日神社

川越越生道の北約二三町に位し、犬竹の鎮守也。 創立不詳。 末社に稲荷あり、樹木稍々大なるもの若干あり。

宝勝寺跡

春日神社の北、一町許りにして廃堂あり。 傍に墓石立てり。 是れ宝勝寺にして、犬竹織部正則久(今の勢〆氏)の菩提寺也。 開山不外壽賢、元和三年の示寂也。

犬竹氏屋敷跡

宝勝寺の西に連りしが如く、其地は今は田となり、又人家となれり。 其屋敷鎮守の祠跡、今も田間に存す。

寺田―長福寺旧跡

鯨井村後方に存する長福寺は元犬竹の西南方、今の寺田と称する地にありと覚しく、其辺の水田今も往今にして板碑を発見することありといふ。

鯨井(表方、後方、宿、有泉、天王)

浅間神社

元入間川辺の堤上にありしものを、一度天王に移し、後上戸日技神社に合せり。

御嶽神社

今は上戸日枝神社境内に移せり。

八坂社

宿にあり。 元は浅間社と共に天王の地にありしが、其後此処に移し、而して今は日枝社に合して、拝殿を残すのみ。

薬師堂

宿にあり。 八坂神社拝殿前に位す。 傍に大なる柊木(ひいらぎ)あり。 其樹下に稲荷の祠を設く。

長福寺

街道より、少しく北に入りて門あり、之を吉詳山長福寺と云ふ。 曹洞宗龍ヶ谷龍穏寺末にして、其昔犬竹の地にあり、文明初年の頃沢文書光和尚草庵を設け、次で雲崗俊徳禅師伊勢より来て、修業に力をつくし、遂に一寺となし、自から其開山となりて、永正二年(或は延徳二年とも云ふ)本山に転住し其第五世となり、永正十三年五月十五日を以て示寂せり。 二代目三代目の頃寺勢盛大にして、約十個の末寺あり、宝勝寺、青林寺等は其中にあり。 後天文の頃火災にかゝりしが、永禄年中駿河国蒲原城主北条源庵の息新三郎綱重の臣鎮目鹿之介政安、戦死して其子下総守安経、鯨井に来り、主及父の菩提の為め、此寺を再興し遂に犬竹より移して今の地に置けりといふ。 其後明治十一年火災あり表門を残して他は皆焼失せり。 今の寺堂は其後に立てし所たり。

其他愛宕社、第六天社、神明社は何れも上戸日枝神社に合祀し、若くは其境内に移し、円福寺(真言宗慶長頃の創立大智寺末)、薬師寺(真言宗、大智寺末)、観音寺等は其跡を知らず。 独り青林寺(元和年代の創立、長福寺末)は村の北方に其堂を残して久しく雨露を冒しりゝあり。 又右薬王寺のありし地方と覚しき辺には、鉄屑出ること多く、恐くは鍛冶師の住地たりしならん。 (其屋敷跡は西原にありと云ふ)児ヶ淵、八幡橋の伝説は今掲げず。