京塚の伝説
経塚は京塚とも云ひ高八九尺字地蔵堂の南方にあり、伝説に曰く、源義経の妻京姫なる者夫を慕ひしが死して此処に葬ると。 蓋し川越氏は義経の縁家也。 塚は尚存せり、之を堀らんとすれば直に病を発すと云ふ。
上戸(うわど)は鯨井村の南に連り、東西七町、南北五町、人家約四十戸あり。 古「上八戸」と書せしと伝へらる。
経塚は京塚とも云ひ高八九尺字地蔵堂の南方にあり、伝説に曰く、源義経の妻京姫なる者夫を慕ひしが死して此処に葬ると。 蓋し川越氏は義経の縁家也。 塚は尚存せり、之を堀らんとすれば直に病を発すと云ふ。
村の西方にあり。 越生街道に背を合せたり。 正面は社道十町に近く、樹木両側に生ひたり。 社は貞観年中の創立にして、寛元元年北条時頼再営あり、文応の頃平経重之を崇敬せりと云ふ。 日枝社の傍に愛宕、御嶽以下十余の小社あり。 日枝には、第六天、神明、首頭三社を合祀せり。 元上戸鯨井的場三村の鎮守にして、樹木欝蒼其西及北の如きは密林深叢なりしが、今は開墾して、殆ど古木老樹の影を留めず。 然れども究ひべきもの尚少からず。
日枝社の神職は上戸氏と称し、社の南方にあり。 即ち昔の大広院にして、古は宝蔵院、大広院相並んて、別当を務めたりとの伝説あれども、宝蔵院の事定かならず、又上戸氏も旧家と称すれども五代以前火災にかゝりて、古書の徴すべきなし。
又此辺塚少からず。 社の華表前土手の端の円塚は恐らく古墳なるベく、之に続て其前人家のある処にも塚あり。 此の塚に関して虚無僧の殺害物語伝へらる。
山王原にあり。 即ち日枝社の境内なり、明治維新の後境内八百三坪の外段別三町四段三畝三十一歩官林となる。 其頃堀跡及土手跡等ありて古城の様あり。 古木繁茂せり。 大導寺駿河守は其墓碑及霊牌を常楽寺に存し、川越城主酒井雅楽頭は文禄元年上戸より今の川越へ移れりとの伝あり。 此城蹟は川越城と多少の関係を存するに似たり。
川越山と号し、時宗也。 開山は遊行三代中政智徳上人にして、元応二年七月朔日示寂也。 中興開基大導寺駿河守(松雲院殿江月常静居士、天正十八年七月十九日卒)今も其霊牌及墓を存す。 墓石は再建と覚しけれども、霊牌は当時の制に適へるが如し。 又板碑甚が多し。
境内垂梅の大なるものあり。 楼門、裏門の風趣味ふべし。
寺の西方に高五六尺、長一町にも及べる土居の跡あり。 思ふに寺の西隣館蹟にして、土居は常楽寺をも包みしものならん。