諏訪社
北隅にあり、神明社と合祀せりと云ふ。
下広谷は村の西北隅に位し、東西二十町、南北之に適ふ。 民家七八十、 此村元上広谷(今鶴ヶ島に属す)と合して一村なりしを、慶安元年上下に分村せりと云ふ。
北隅にあり、神明社と合祀せりと云ふ。
中央にあり。 広林山と号し、大智寺に属す、昔は寺観も盛大にして、門前を長松寺町と称したりと伝へらる。 今は廃寺となり僅に荒廃せる一小堂を存するのみ。 堂の後方より土居の跡数十間、西方に向て走り、又北方に続けり。 思ふに古は必ず長方形に続きしなるべし、但何人の居なるやを知らず。 然れども寺は豪族の消滅若しくは移転後恐らく建立せられたるものと覚し。
北部にあり、施無畏山と号し、大智寺末、其境内にも亦構堀あり。
川越高坂街道の北一町許りに在て、最も完全に土居の跡を在す。 其高六七尺、東北は二重堀也。 東西六十間位、南北百間もあらん。 中央に杉樹一本あり。 近傍の人家に就て之を尋ねるに青木氏の住せし処ならんと云ふ。 青木氏本拠は三芳野村青木にあり。 跡の東隣に住する新井氏?は或は其後なりと云ふ。
街道よい南すること、三四町、高台を下て、水田地に出んとする処、又土居あり。 形跡十分に知り難しと雖、約三四十間以上も続きたり。 抑も館跡にや。 抑も一時の砦跡にや。