坂戸神社
明治十六年左の六社を合し、十六年社殿を改造し、坂戸神社と称す。坂戸一丁目にあり。
天神社
島田某の此地を領せし時は其屋敷鎮守なりき。
白髭神社
村社。
坂戸は町の稍々南部に位せり。古は更に西南部、今の元坂戸の辺に人家ありしが、後北条氏の時、小田原或は八王子より鉢形或は厩橋へ往来の地方に当りしかば、天正十二年大導寺駿河守、元坂戸より農家三十九戸を移して、新に駅を開けり。次で江戸時代には八王子日光街道に当り、千人同心が往来の馬次なりしかば、宿駅大に繁昌せりと云ふ。従て町は明治に至て幾分の衰状あるが如し。
明治十六年左の六社を合し、十六年社殿を改造し、坂戸神社と称す。坂戸一丁目にあり。
島田某の此地を領せし時は其屋敷鎮守なりき。
村社。
村社也。今は坂戸神社に合す。風土記に曰く。
当社免田其中の小頭源蔵といへるものゝ家に武田信玄より与へしとて文書一通を蔵す。其故を尋るに元は今の宿の東北比企郡へ行く道の傍に住せしに、天正中信玄鎌倉より古河へ往来の時、道にて馬具の損せしを、源蔵の先祖修理せしにより与へしといふ文書の写を、左に載す。
定
向後御細工之奉公可致勤仕之由言上之間郷次々御普請役有御赦免者也仍如件
天正五年六月廿一日 跡部大炊助泰之
六右衛門
按に天正五年の文書をもて信玄より賜ひしと云ひ、且此頃信玄鎌倉より下総国古河へ通りしと云へど、信玄は天正元年に卒せり……思ふに甲斐国より移住せしものにて、彼国にありし時の事なるべし。
と。但信玄は永禄十三年鉢形を攻め、小田原に進まんがために此辺を南下した。
龍穏寺末にして、曹洞の名刹也。長溪山と号す。風土記に曰く。
天正十八年島田次兵衛重次、当村を賜りし後、慶長十二年その父左京亮某三河国より爰へ引移し、己が菩提所となしたれば、是を当寺の開基とせり。此人は慶長十八年五月十五日卒す。法名源翁永源庵主、開山は本山十四世大鐘良賀、慶長十九年正月二十八日寂せり。後寛文二年丙丁の災に罹りしを、明る三年島田出雲守再興せしと云へり。
と。後、寺は弘化三年復焼失し、嘉永二年庫裡を建て其本堂は明治十八年に成れり。寺宇清浄、鐘楼あり、山門あり、境内頗る広濶、杉樹密生せり。
其他常福寺(大智寺末文明十二年建立と称す)、正蔵寺(大智寺末慶長四年建立と称す)は廃寺となり、薬師堂と観音堂あり。薬師は坂戸判官の守本尊と称せらる。又常泉寺蹟は南方、道願山と云ふ処にありて、坂戸判官の開基せる寺なりしと云ふ。寛永以来廃寺たり。