白山神社

村社也。今は坂戸神社に合す。風土記に曰く。

当社免田其中の小頭源蔵といへるものゝ家に武田信玄より与へしとて文書一通を蔵す。其故を尋るに元は今の宿の東北比企郡へ行く道の傍に住せしに、天正中信玄鎌倉より古河へ往来の時、道にて馬具の損せしを、源蔵の先祖修理せしにより与へしといふ文書の写を、左に載す。

向後御細工之奉公可致勤仕之由言上之間郷次々御普請役有御赦免者也仍如件

天正五年六月廿一日 跡部大炊助泰之

六右衛門

按に天正五年の文書をもて信玄より賜ひしと云ひ、且此頃信玄鎌倉より下総国古河へ通りしと云へど、信玄は天正元年に卒せり……思ふに甲斐国より移住せしものにて、彼国にありし時の事なるべし。

と。但信玄は永禄十三年鉢形を攻め、小田原に進まんがために此辺を南下した。