土屋神社
明治四十二年土屋権現社に神明稲荷、幡戸明神、天神の諸社を合祀したるもの也。土屋神社の社地は、稍々大なる古墳と覚しく、本社は土室にして付近に大板石の横はれる様石棺の存せし塚穴なるが如く、拝殿は其前に建てられたり。本社土室の後方丘形を存し、周囲三丈二尺の大神代杉あり。社の旧別当大蔵院、今は神職として奉祀せり、永正十年の鰐口を蔵す。
又合祀せられたる諸社中、幡戸明神は元下浅羽分にありて、萱方城(浅羽氏の拠)攻の時、塚上に建てたる旗を神体とせるものなりと伝へたり。
浅羽は町の西南部にあり。始一村なりしを、正保以後上下に分ちしが、明治に至て又合して一村とせり。浅羽氏の拠地は隣村大家村萱方にあり。曽て宿並と称する処あり。或は鎌倉街道若くは之に劣らざる旧街道の宿駅なりしならんかとも云ふ。経塚、旗塚等称する塚ありしも今は大抵之を見ず。
浅羽の南部に一古墳と覚しきものあり。墓地となりて、墓石相列びたり。其処に一大板碑あり。高八尺五寸、幅二尺二三寸
光明遍照 右志者為自他法界
十方世界 衆生也結衆三十人
応長二年壬子三月十五日敬白
念仏衆生 大檀那安部友吉
構取不捨 並長田守行
と記したり。安部友吉、長田守行如何なる人なるやを知らず。
明治四十二年土屋権現社に神明稲荷、幡戸明神、天神の諸社を合祀したるもの也。土屋神社の社地は、稍々大なる古墳と覚しく、本社は土室にして付近に大板石の横はれる様石棺の存せし塚穴なるが如く、拝殿は其前に建てられたり。本社土室の後方丘形を存し、周囲三丈二尺の大神代杉あり。社の旧別当大蔵院、今は神職として奉祀せり、永正十年の鰐口を蔵す。
又合祀せられたる諸社中、幡戸明神は元下浅羽分にありて、萱方城(浅羽氏の拠)攻の時、塚上に建てたる旗を神体とせるものなりと伝へたり。
大智寺末、八葉山来遊院と号す。中興開山争含貞享元年寂す。鐘楼あり。
大智寺末、本尊は浅羽左近将監の守本尊なりしと云ふ。今は廃寺たり。