北浅羽

北浅羽長岡の東に隣り、村の西北部に位す。

八幡神社

古社にして、浅羽小太夫が鶴岡八幡を勧請したるものなりと云ふ恐らく然らん。明治四十一二年、東和田八幡社沢木の□□社、金田神明社今西十二天社等を合祀したれども、名称は依然八幡神社と称す。社殿壮麗也。

満福寺

真言宗にして、越生法恩寺末なり。天徳山地蔵院と称す。伝ふる所によれば此寺実に浅羽氏の菩提寺なりと。永禄の頃兵火に罹り一たび廃滅に帰したりしを、後俊誡中奥し、元和元年寂す。其後寛文十年浅羽三右衛門と称するものが記せし当寺及八幡社由来記、風土記に引用せらる。曰く

昔内大臣伊周公左遷の時末子一人京都に留められしが、有道氏の養子となりて関東へ下向す、是を有道貫主遠峰と号す、其子を武蔵守惟行と云、延久元年七月七日卒す、其庶流浅羽小太夫行成と云ふ者右大将頼朝の時功ありて、両浅羽、長岡、小見野、粟生田、などの地を賜はる、また頼朝の命によりて、鶴岡正八幡を浅羽庄へ遷せり、是今の八幡社なり、其三男五郎兵衛行長は頼朝の供奉して奥州へ下り戦功ありしものなり。此人当寺を再建す。当寺昔は真言律宗なり。後改て真言宗となる。其後建武年中尊氏田地寄附の状あり。其文に曰

自元弘到建武戦死亡卒之幽霊数万也不吊者不可有囚茲浅羽之庄之中水田十町畠田十町永代寄進之香花灯明誦経等聊懈怠不可有者也。

建武三年七月十三日 源尊氏

其後永享年中当所の主浅羽下野守、同左衛門太央鎌倉にて戦死し、其子孫久しく浪流して、遥の後永禄七年当所に来り、暫く居住せしかど、又子細ありて出て、上野国佐野庄の内免鳥城に住せり。大旦越を失しにより、当寺も次第に衰へ行きしに、天正十八年、小田原陣の時、敵の軍兵乱妨して、堂宇を破却し、空地となし、纔に草庵一宇と小社一宇とを残せり。此後北南両浅羽の浅羽が子孫も愈々衰へて、氏神菩提寺をも知らざるに至る。

と。尊氏の文書は真にあらざるべし。今無しと。寺は甚だ衰へたり。見るベきものは浅羽氏の大板碑のみ。高さ六尺、幅二尺七八寸もあらん。行体にて

右為曩祖浅羽小太夫有道行成朝臣其子孫等就彼故墳

徳治二丁□□月日七代末孫□□□□□□

奉造也状願菩提樹茂近藤後

昆本覚月朗遠照幽冥也

と記せり。文字頗る読み易からず。或は多小の誤写あらん。

薬師堂