古宮三社明神
(一般には三社の一住吉神社を以て通称す)旧平山分にあり。今は臥龍山に合祀して、其神体青石二尺許の石剣をも移し去れりと雖、社殿尚存し、杉松之を護れり。社伝詳ならず。然れども比較的古社なるにや。
岩井は毛呂本郷の東北に接し、川越越生街道を越えて更に北方にも及べり。明治八年堀籠、馬場、平山の三村を合して岩井と称したること既に述ベたり。堀籠は或は堀割等の存せし処にや、馬場は即ち毛呂氏館に属する馬場なりしと伝へられ、平山には小田原北条の頃平山氏知行在住したりしものの如し。現今岩井の戸数百余。
(一般には三社の一住吉神社を以て通称す)旧平山分にあり。今は臥龍山に合祀して、其神体青石二尺許の石剣をも移し去れりと雖、社殿尚存し、杉松之を護れり。社伝詳ならず。然れども比較的古社なるにや。
旧平山分の西部、古宮明神に近く、土居の稍々長方形に連続せる処あり。土人称して堀内と請ふ(今はあまり称せず)今は斉藤氏の居となれり。曽て何人の住せし所なるやは口睥にも存せずと雖、北条役帳平山長寿十六貫二百廿八文入西郡(小山)平山(檜原)、及平山善九郎十六貫七百文平山分とあるを見れば、或は此平山氏の居跡なりしにや。
堀内の東に接して、平山氏の住宅あり。元斉膝氏と称し、明治初年村名に因て平山と改む。賞に平山村諸斉藤氏の本宗也。故に今の平山氏、古の平山氏と全く何等の関係なし。伝ふる所によれば、斉藤氏元松山城主上田案独斉に事へ、天正十八年松山陥るに及で、兄弟三人、一人は比企郡中山村園部に住し、一人は郡内高萩村女影に住し、一人は此地に住せりと。家に北条氏政が、上田案独斉に与へたる古文書あり。又漢籍書画の所蔵甚だ多く、石器数点あり。邸内居木蓊鬱たり。
平山氏の東に接して復土居の長方形に連続せるを見る。之れ江戸時代の始村田和泉守が居住したる処にして、土居の中今も村田氏二戸住し、其北方土居外にも尚二三戸村田氏あり土居の中東方の村田氏は其宗と称せられ、家に大刀を蔵す。本家村田氏、西隣村田氏と北隣村田氏との三家家屋の築造甚だ奇古にして、其柱頗る大而して劉らさる也。(平山分島田氏の柱も亦同じ)
旧堀籠分に塔の越と称せらる処あり。一松樹の下、板碑を出し、文字明かならず。依て或は古代入間の孝子矢田部黒麿の墓と称するに至りしが、仔細に検する時は其文字宝亀三年十二月にあらずして宝徳二二年十月なると疑なし。黒麿の墓は断じて斯くの如きものにあらず。尚其地に就て検すれば、元徳二年八月六日と刻せる小板碑あり。其他破片若干あり。元徳は後醍醐天皇の時、宝徳は足利義政の時代に当れり。