旧堀籠分に塔の越と称せらる処あり。一松樹の下、板碑を出し、文字明かならず。依て或は古代入間の孝子矢田部黒麿の墓と称するに至りしが、仔細に検する時は其文字宝亀三年十二月にあらずして宝徳二二年十月なると疑なし。黒麿の墓は断じて斯くの如きものにあらず。尚其地に就て検すれば、元徳二年八月六日と刻せる小板碑あり。其他破片若干あり。元徳は後醍醐天皇の時、宝徳は足利義政の時代に当れり。