臥龍山
毛呂本郷の東方に当り、長楕円形の容姿整然たる一山あり。松杉群生して頗る美観を添へたり。之を臥龍山と名く。臥龍山は南北三丁余、東西一丁半、其形非常に大なる瓢形古墳に似たり。
山上に神社あり。境致甚だ幽邃高雅也。
前久保は村の東北部を占め、川越越生街道の北方に人家散在せり。戸数六十。川越松山之記に前窪村と記し、此辺凡て梶木多く畑に植ゆと見えたり。蓋し当時の実見記ならん。前久保の西南岩井、長瀬及毛呂本郷との境界は互に交錯して甚だ明ならず。臥龍山の如きも厳密に物色すれば前久保に属すと請ふ。
毛呂本郷の東方に当り、長楕円形の容姿整然たる一山あり。松杉群生して頗る美観を添へたり。之を臥龍山と名く。臥龍山は南北三丁余、東西一丁半、其形非常に大なる瓢形古墳に似たり。
山上に神社あり。境致甚だ幽邃高雅也。
臥龍山上相並て二社あり。其稍々小なるは八幡宮にして、稍々大なるは飛来明神社也。飛来明神は毛呂氏代々の守護神なりしが如く、八幡宮は恐らくは鎌倉時代に設立せられしものならん。然るに延喜式神名帳によれば入間郡五坐の神の内出雲伊波比神社の名ありて、其所在明かならず。此に於て維新の頃勤王家横田直助等熱心に主張する所あり。遂に飛来明神を改めて、出雲伊波比神社と称するに至れり。社に大般若経残缶二三十巻あり。又北条氏政の鐘借用に関する古文書を蔵す。其他徳川時代の文書少なからず。毛呂村内の神社は今は大抵此社に合祀し、神官は紫藤氏。社後に末社等甚だ多し。
臥龍山の南に住す。其祖紫藤貢は毛呂氏の臣にして、此社の社司となれりと云ふ。小田原役帳に紫藤新六、十八貫七百六十三文入西郡大類卯検地、六貫三百四十五文同大類、卅貫文御蔵出、以上五十五貫八文とあるは恐らく其一族なりしならん。其後吉田家の配下となりしことあり、現主宣安氏に至て十六代なりと請ふ。其家屋、大柱にして劉らず。頗る古色あり。
曽て四寺あり。今何れも廃滅に帰す。天台宗の等覚院は紫藤氏近傍磐若にあり、真言宗の泉乗寺は新井惣助氏の西にあり。兵恩寺は宮里に、長源寺は山子にありき。