小田谷

小田谷は村の西南に当り、飯能越生街道に沿ひて人家散在せり。其数四五十。

長栄寺

村の西小丘の中腹に一寺あり。金島山長栄寺と称し、曹洞宗、梅園村龍ヶ谷龍穏寺に属す。

伝ふる所によれば、毛呂土佐守顕季大永五年起立せる所にして、龍穏七世節庵良?(竹冠に均)を以て開山とすと云ふ。寺僧の語る所によれば其本堂は大永以来末だ一たびも改築せずと。堂に古霊碑あり。開基長栄寺殿一田幻世庵主天文十五丙午十二月廿七日逝去(毛呂顕季)と記せり。牌式字体可なるが如し。

堂の後方、丘腹に住僧の墓所あり。中に五輪塔四基あり。陰かに「以三妙玄大姉」「弥阿文暦元年遁世」「恵倫応永三年遁世」「一田幻世庵主天文十五年十二月廿七日」と読まる。応永及其以前の墓石は後世の追善にや。寺に毛呂山田氏の系図を蔵す。

嘉永七年酒井修理太夫の臣山田九太夫が栗原、田畑、大谷木、長栄寺並川越山田氏等の諸本によりて記せる所也。

毛呂氏館跡?

長栄寺の東北、丘下に堀内と称する処あり。其南方には近年まて土手堀の跡を存したりと云ふ。

又寺の北、丘上一小塁跡あり。今も尚土居の跡を存すと聞く。思ふに此辺曽て毛呂氏の住地たりし処なるべし。然も今や畑となり森となる。低徊之を久うす。