越生神社
高坂にあり。元無格社たりし琴平神社に村社八幡、其他の諸社を合したるものにして、社地は高燥にして、広濶、社殿壮大也。八幡社は元法恩寺伽藍鎮護の為に勧請せられたる処にして、琴平社は文治中越生基行が館内鎮護に充てたりと称せられ、社殿今も尚越生神社後方の山上約五六町の処に存す。眺望甚だ佳也。社地付近は即ち越生氏の城廓なりと称すれども、聊か疑なき能はず。或は山上は非常の城塁にして、平時は山下に住せしにや。
越生は即ち元今市とも称せられたる処にして、町の殆ど中央に位せり。人家街道の両側に並び、郡内西北部に於ける唯一の市街地也。町役場、警察分署、郵便局、病院、小学校等あり。
高坂にあり。元無格社たりし琴平神社に村社八幡、其他の諸社を合したるものにして、社地は高燥にして、広濶、社殿壮大也。八幡社は元法恩寺伽藍鎮護の為に勧請せられたる処にして、琴平社は文治中越生基行が館内鎮護に充てたりと称せられ、社殿今も尚越生神社後方の山上約五六町の処に存す。眺望甚だ佳也。社地付近は即ち越生氏の城廓なりと称すれども、聊か疑なき能はず。或は山上は非常の城塁にして、平時は山下に住せしにや。
越生神社の東、市街に面せり。新義真言宗山城国醍醐三宝院の末にして松溪山と号す。古は報恩寺と記せり。今の寺地の南寺井に伽藍を設く。越生家行の再興にして、其以前或は小庵若くは小坊などのありしにやあらん。家行再興の後屡々土地の寄進、寺堂の改修等あり。寺観の盛大なりしを窮ふに足る。中興の開山は栄曇、応永二十五年寂せり。或は此頃より真言に属し、松溪と号せしにや。三世晏慶に至て兵火あり、伽藍文書等一切を失ふ。其後徐々興復の工を起し、寛永十六年に至り頗る旧観に復するを得たりしが、明治に至り町役場に使用せし時、過つて火を失し、寺堂烏有に帰し、山門鐘楼土蔵等を残すのみ。古来の名刹も今は其面影を忍ぶに由なし。
法恩寺に蔵する高野明神丹生明神の二幅は国宝に属し、其他仏書の類多し。又境内の一部に板碑あり。年譜録に就ては改めて述べず。
越生神社の北にあり。市街より西に入ると数町也。大慈山と号し、臨済宗にして鎌倉建長寺に属し、足利尊氏の開基にしで仏寿禅師の開山と称し、或は仏寿以前印元和尚の開山とも称す。要するに鎌倉末、南北朝始の間に創立せられたる寺院也。寺に般若心経(木版)を蔵す。
上中下等市街に附せられたる名称は珍しからず。倉田は古くより存して、年譜録に所謂倉田孫四郎基行(児玉性行の弟)の退隠せる処と称す。其他越生神社社地の一部より東に及び、市場及法恩寺の西に及べり。或は近年に至るまで館跡たるの形態存したりと云ふ。今も椿の稍々大なる木あり。思ふに倉田は年譜録に見ゆること、其初に於て一回のみ。或は此舘跡なるもの、後世越生氏そのものゝ拠地たらざらんや。即ち非常の際山上の塁砦に入り、平時にありて山下の住宅に居るは古来必ずしも稀ならず。殊に其地高く、後は山により、。右に上台寺井の丘地を控へ、左手前面は越生の市街に接せり。越生町の付近に於て、館地を求めんとする、恐らく此地を外にして又適せるものあらざるべし。越生氏の館跡到底此処を出でじ。
栗坪は年譜録文安四年の文書に見え、栃島も応永三十二年の文書に見ゆ。上台は即ち法恩寺南方の小丘にして、此辺より其南寺井に及びて法恩寺の旧寺域なりしと云ふ。或は古瓦も出づと云ふ。