上中下等市街に附せられたる名称は珍しからず。倉田は古くより存して、年譜録に所謂倉田孫四郎基行(児玉性行の弟)の退隠せる処と称す。其他越生神社社地の一部より東に及び、市場及法恩寺の西に及べり。或は近年に至るまで館跡たるの形態存したりと云ふ。今も椿の稍々大なる木あり。思ふに倉田は年譜録に見ゆること、其初に於て一回のみ。或は此舘跡なるもの、後世越生氏そのものゝ拠地たらざらんや。即ち非常の際山上の塁砦に入り、平時にありて山下の住宅に居るは古来必ずしも稀ならず。殊に其地高く、後は山により、。右に上台寺井の丘地を控へ、左手前面は越生の市街に接せり。越生町の付近に於て、館地を求めんとする、恐らく此地を外にして又適せるものあらざるべし。越生氏の館跡到底此処を出でじ。
栗坪は年譜録文安四年の文書に見え、栃島も応永三十二年の文書に見ゆ。上台は即ち法恩寺南方の小丘にして、此辺より其南寺井に及びて法恩寺の旧寺域なりしと云ふ。或は古瓦も出づと云ふ。