上野
上野は越生の南にあり。地域甚だ広く、西は大高取の山側より、東は川越街道の尖端に及べり。従て西方は高低多く、東部に至つて平坦也。西方山間に幕岩(まくいわ)と称する大岩壁あり。
略々中央宮附にあり。北及南は何れも小流の通ぜる低地にして、社地は中間の高台を占めたり。口碑には文武天皇の頃創立、承和三年武蔵介当宗宿禰家主再営、応永十年遠江守長隆(児玉氏)修営、天文六年毛呂土佐守顕季再営と伝へ、応永、天文の棟札も存すと称すれど、未だ詳ならず、次で元亀二年風土記には文亀とあり。誤れるなりと云ふ。)泉州神馬代官村田大蔵なるもの再営し、棟札今に存すと云ふ。村田大蔵とは如何なる人ぞ。天正以後毛呂村岩井に住せし村田氏とは関係の存せざるにや。社殿壮にして、明治四十年如意の白山神社、熊野、愛宕の諸社、及上野の諏訪、琴平、天神、熊野、稲荷の諸社を合祀せり。神職は森村氏今に三十九代なりと云ふ。
東部淵上にあり。付近凡て陸田となれり。風土記に土人の説を引て曰く、此社地は昔児玉某の居所にて、屋鋪の鎮守なりし故、児玉稲荷と号せりと。然れども今は土人の記憶に存せず。果して然るや否やを知らず。
今は合祀せられたるならんも、医王寺に属し、天正十八年前田利家松山城攻撃の時、此寺に陣したる紀念なりと云ふ。
台にあり。後は山にして、前は狭長なる低地也。新義真言宗にして今は法恩寺に属すれども、古は三宝院直末にして、法恩寺と軒輊あらざりしと云ふ。応永の頃十八個の末寺を有す。瑠璃山東園院と号す。天平年代の創立と称すれども明ならず。中興法流開山曇秀寛正四年二月四日寂す。慶安二年第十四世承尊の記せる由来記あり。元禄年代之を清書す。天正十八年前田利家の禁制書あり。並に其説明書あり。十九世宥朴の書也。別に宗門関係に属する応永時代の文書多けれども、聊か吟味を要すべし。心経筆写一枚、玉幡二流あり。本堂、庫裡、薬師堂、門墻等古の面影なしと雖、寺観未だ必ずしも見るべからざるにあらず。本堂に承応三年の鐘あり。頗る長方也。墓地に板碑数基あり。寺の東隣は鍛冶屋敷と云ひ、其辺石田姓多し。
村の東南隅に位し、高台の上に南面せり。福寿山瀧房院と号す。寺の草創は寛元四年にして、中興開山を空伝(応仁二年頃住)と云ふ。寺は元台下に東面して立ちしが、寛永三十年其堂宇を今の処に引き、寛保三年新に寺堂庫裡厩を建立せりと云ふ。毘沙門堂あり。毛呂村岩井法眼寺より引ける薬師堂あり。墓地に板碑あり。
西方山間にあり。法恩寺末にして、三満山と号したれども、堂舎は今や雨露に瀑されたり。堂の上山側に虚空蔵堂あり。屋根高く、樹林の上に突出し、結構頗る竪牢也。