略々中央宮附にあり。北及南は何れも小流の通ぜる低地にして、社地は中間の高台を占めたり。口碑には文武天皇の頃創立、承和三年武蔵介当宗宿禰家主再営、応永十年遠江守長隆(児玉氏)修営、天文六年毛呂土佐守顕季再営と伝へ、応永、天文の棟札も存すと称すれど、未だ詳ならず、次で元亀二年風土記には文亀とあり。誤れるなりと云ふ。)泉州神馬代官村田大蔵なるもの再営し、棟札今に存すと云ふ。村田大蔵とは如何なる人ぞ。天正以後毛呂村岩井に住せし村田氏とは関係の存せざるにや。社殿壮にして、明治四十年如意の白山神社、熊野、愛宕の諸社、及上野の諏訪、琴平、天神、熊野、稲荷の諸社を合祀せり。神職は森村氏今に三十九代なりと云ふ。