西和田

西和田如意の西北に接せり。其如意と境を接せる辺、山吹と称する地名あり。或は言ふ。太田道灌の山吹里なりと。然るに道灌山吹の物語は史実として殆ど信ずるに足らず。従て道灌優美の心情を形容せる一伝説とのみ解すベし。然らば此地を以て其古跡なりとするも可、なさゞるも不可なき也。

春日神社

大利にあり。宝永三年密僧天龍なるものゝ編せる記録によれば、社は延暦元年大和国春日大明神の分霊を祭りしものにして、内裏明神と称し、当時は大利山(願立山とも云ふ)上獅子岩の辺にありしを、大同元年阪上田村麿の今の処に移せるなりと。遽に信ずベからず。風土記に載する天文十二年龍穏七世良?(竹冠に均)が記せし緑起に藤原季綱此地に左遷せられし時、其氏神慕ひ来りて、秩父高山の峯に光を放てり。之を毛呂明神となす。季綱依て二所に祀り、此社を内裡明神と称す。何れも採用すベからざる個処甚だ多しと雖、要するに毛呂氏の氏神にして、其古く此地に勧請せられたるを推知するに難からず。然れども毛呂臥龍山飛来明神との関係明かならず。暫時一体二所分祀の説に従ふも不可ならず。内裡明神の称古くより行はれたり。永禄元年松山城主上田能登守再営、次で内裡明神の名を廃し、春日神社と称す。明治四十年大谷富士塚の浅間、天神、稲荷、同堀内の八幡、同房の神明、同仲ノ谷の住吉、西和田東尾崎の八坂等の諸社を合祀せり。

興禅寺

春日社の北にあり。上野医王寺に属す。石植山常住院と号す。開山栄龍応永三十年寂す。寺は七十年前火災に遇ひ、今の寺堂は其後の新築にかゝる。土地高し。境内に稍々大なる板碑あり。

龍台寺

春日社の東南にあり。法恩寺末也。御嶽山不動院と号す。開山栄仁応永六年寂すと云ふ。墓石あり。後の修造ならん。寺に古霊牌あり。権大僧都法印頼誉和尚と記し、裏に享禄五年壬辰十月廿四日と記せり。制式当時のものなるが如し。又一基婦久権大僧都慶祐覚位慶長九甲辰暦十一月八日入滅子時壬○之年住法印也と記せり。当時のものなるに似たり。本堂は甚しく古色を存せずと雖、焼失せしとはなしと云ふ。不動堂あり。門牆あり。西北東の三面は元、土居を以て囲みしが如し。

藤原季綱旧跡に就て

風土記には内裡にあり。季綱後に横見郡吉見領御所村へ移りしと云伝ふ云々と記せり。吉見村御所には源範頼の旧跡と称するものあり。或は相関連して何等かの消息を残せるものにや。要之春日神社の付近或は古、或時期に於て毛呂氏祖先の住地たりしにや。